先日、銀行の待ち時間の間ふと手に取った雑誌に、どこか外国の巨大な仏像の写真が載っておりました。どうやら東南アジア、かつての仏教寺院の一角で、遺跡の様な場所に非常な存在感で仏像か座っている訳です。それを見て兎に角思ったのが“旅行の途中でこんな光景と遭遇したら、それはそれはたまげるだろうなあ”と云う事です。こんな凄いものを作ったかつての誰かの事に想像力を巡らせ、それが眼前の光景と合わさり、何とも名状し難い感覚に落ち入る訳です。
ただ、雑誌なので当然の如くそこに説明書きが添えられているのですが「1×世紀 タイ初めての独立王朝の遺跡―」等と書いてあるのを読んだ途端、それまで感じていた何とも云えない圧倒的な存在感はしぼんでしまい、眼前の写真が、まあよくある観光案内に変化する―と云う感覚がありました。
言葉と云うものは異なる人間が同一のイメエジを作り出す上で有効なものですが、一方で事物を言葉と云う記号に変換する際にそこから失われるものがあります。
例えば子どもの頃目にする風景にはしばしば、どこか不思議な感覚が伴います。まあ、初めて見る物が多い為世界がそもそも新鮮なのですが、言葉をあまり知らない事もその理由に挙げられましょう。例えば父の書斎(なんて無かったけど)、本棚に並ぶ分厚い本。中には、兎に角細かい字で何やらギッチリと書いてあり、そこには何か計り知れないものが詰まっている訳です。「よくわかんない、なんかすごい」と云った具合ですね。その他にも、家族と外出をした際何かの折に1人で車に残される―なんて云う場面、日頃両親が何気なく操作している各レバー類なんかを改めて観察するに、そこには自分の手には余る何かすごい秘密の仕掛けが隠されている訳です(僕事サイドブレーキを下げる際に親指で押すスイッチを、ミサイルの発射スイッチに見立てていたものです)。そして何も難しい本や機械に限らず、おばあちゃんの家の縁側でも、その床の木目、目を転ずれば木々がしげる広い庭、今ではあまり使われていない離れ、ふと背後を見やると屋外の明度に慣れた目に、人気のない畳の部屋が一際暗く見え―と云う風に、目に映る色々が少しずつ不思議な気持ちにさせます。
こういった感覚は生きている内に段段と感じ難くなるものです。言葉を覚え知識を蓄え、分厚い本の中身は××とカテゴライズされる専門書であるとか、車の座席と座席の間に付いているレバーは何かの折に動かない為のストッパーを操作する物だとか分かっちゃう訳ですね。
但し、分かると云っても“お店の看板は知っているけど中に入って実際に食事をした事はない”と云う状態です。そしてそんな状態が一際著しくなるのが「時間」と関わる際でありましょう。例えば長く年月を経たものは、それだけで何か特別な雰囲気を帯びてくるものですが、それについて“何年前に作られ、その頃の社会情勢はこんなでした”と云う様な説明がなされてしまうと、しばしば特別な雰囲気は払われてしまう事となります。歴史の枠組みにはめ込んで古いものを捉える事は、歴史を理解する上で有効ですが、ものそれ自体を理解する為には必ずしも有効ではない様です。間に一拍おいて時間と云う概念を理解しても、時間そのものにダイヴし体感はしていない―と云いましょうか。
まあ一方で、こうした古いものがまとう特別な雰囲気を払う行為をしないと、ものに対しあまりに色々な執着がまとわり付いてしまうので、それはそれで恐いですけど。
(中野)