2012年12月7日金曜日

カレーライス!



もしあなたがどこか都心近郊のライヴハウスに足を運び、万が一その一角にて、ライオンのマークと「Psycho Kitchen」と云う文字の書かれた看板が出ているのを目にしたならば、迷わずそこでカレーライスを一皿注文する事、僕事強くお勧めします。きっとその一皿との出会いに、ちょっとした幸運すら感じる事となりましょう。

一見してなめらかなカレーソースには、実はたっぷりの野菜が溶け込んでいるのが、食べてみると分かります。おそらくは家庭で作るカレーライスに入っている様な、お馴染みの野菜ばかりですが(タマネギ、ニンジン、トマト)、それらがすっかりソースの一部になってしまうまで、相当の手間ひまをかけて“料理している”のでしょう。ぐぐぐっと凝縮された野菜の旨みや甘みが溶け出たカレーソースは御馳走です。

その、とろっとしたソースを、サックリとしたサフランライスにかけて、はふはふと食べる。これはもう、カレーソースとご飯だけで、いつまででも幸福感を味わえます。
そしてそのお皿の上には更にもう一つ。カレーソースと一緒に煮込んだ、いかにも食べ応えのある鶏の骨付き肉がデンッと乗っています。お行儀はさてき、豪快にかぶりつくのが美味しい食べ方です。

見た目には、いたってシンプルなチキンカレー。そしてそこには「子どもから大人まで大好きだろうな」と云う様な味わいがとじ込められています。そしてサフランライスには、仕上げに、ぱらり、とパセリが一振り。カレーライスとはやはり、こうあってほしいものです。(中野)

2012年12月6日木曜日

ロックオン!日記(或いは報告書)

何とか終わりました、録音。長かった....。
しかしまあ、長引いたおかげで録音するパートが分散され(ヴァイオリンに手間取ったから、歌録りは次回だね、アハハ―とか....)、各パートの準備期間が確保されたとも云えます。

今回は、我々が元々持っているスタイルとは別のところから曲が出てきた部分があって、その為仕上がりの確固たるイメージを保持して―と云うよりは模索をしつつの作業が続いた様に思います。
収穫としては、スタイルの外にある部分に自ら接近して行く事で、結果的にスタイルの幅が広がったと云う点でしょうか。最も、それでも身の丈に合わないものは身に付かないのですけどね。

楽しかったのは、しばしば録音作品に加える必要のある、“ライヴ演奏には無いもう1パート”(と云うものがあるのですが、以前書いた気がするので説明は割愛。あれ...書いていないっけ?...)を作るにあたり、曲を書いた際の自分自身とは距離を置いて、ピッピコピコピコと好きにギターやら何やらを重ねた事です(割と無責任にです)。

と云った次第にて、今回は自分達のスタイルと一致しない点を消化しながら、納得の行くものを作り上げていくと云う作業に骨を折った様に思います。
そして春九作さんが素晴らしいジャケット画を描いて下さっていたので、それに見合う内容を作らないといけないな―と云う気持ちもありました。

因みに以前予告した「買うのか高級弦!?」ですが、えーと、それまでよりも半ランク善いとされているものを買いました。音は 大差無い ちょっと善い。

それでは皆様、次回は「どうするどうなるミックス作業!?」にロックオン!(中野)

2012年12月2日日曜日

藤子・F・不二雄ミュージアムへ



平日の昼日中より@nozushiさんと共に行く大人の散歩。今回はかねてより目論んでいた藤子・F・不二雄ミュージアム行きがついに実現されました。こちらのミュージアム、何しろ休館日が我々の休みと重なっていた為、半年の間行きたくとも行かれずにいたところ、仕事の休みが変わり満を持しての訪問。殊更「ドラえもんチルドレン」であらせられるノヅ氏の喜びはひとしおだったに違いありません。

オープンと同時に入場の予定にて待ち合わせていた我々ですが、事もあろうにこの僕事登戸駅に行く筈が遥か乗り過ごし気付けば町田駅に(馬鹿か)。不慣れな小田急線とは云え酷い失敗。引き返す間、時間通りに到着していたノヅ氏はおそばを食べながら待っていてくれる。
そんな次第にて、何とか入場時間内に到着した我々(時間の制限がある)、ミュージアムの係員の方々もどこか藤子・F・不二雄さんの世界観と合致した風貌で(厳しい採用審査があるのでしょう)、我々の期待感も高まっていく。
そして館内はと云えば、月曜の朝にも関わらず多くの家族連れで既に可なりの賑わい。

僕事藤子作品には人並みに触れてきたものの、藤岡弘さん(と云うのが藤子・F・不二雄さんの本名です)について知っている事は皆無だったのですが、今回ミュージアムを訪れ、藤岡氏の、御家族との触れ合い方について知るに及び、この人は子どもに対する非常に強い感情移入を持ち続けていたのだと感じました。或いは自らが接する子ども達の視点を通して世界を見る事で、自身がかつて子どもだった頃に持っていた感覚をありありと感じられる方だったのではないか、と思いました。
例えば、藤岡氏は娘さんの朝食時には昨夜どんな遅くに寝ていても必ず起きて来て、食パンにバターやジャムを綺麗な模様にして塗ってあげた、とか(本当に手で塗ったのか、と思える様な美しい市松模様でした)。恐らくは“自分が子どもだったら、周囲の大人がどんな事をしてくれるとワクワクするか”と云った想像をごく自然にされていたのではないでしょうか。

さてここで、藤子さんが掲げておられた“SF”=“すこし不思議”と云う言葉に着目するに、子どもにとって世界は常に“すこし不思議”なものなのだと云えるのではないでしょうか。例えば僕事子どもの時分には今よりも死と云うものを日常に感じ、また、恐れてもいました。自らの死だけではなく、周りの人間の死も含めてです。それは「この世界において、何でも起こり得るんだ」と云う心構えがあった為と思われます。そして、死を身近に感じると、その分生と云うものが活き活きとしてくる、と云う事が云えましょう。まあ、「何でも起こり得る」と云ってしまっている時点で既に「不思議なものは無い」と云う事になる訳で、つまりは“SF”=“すこし不思議”は大人の言葉と云う気がしますが、それはさておき。
こうした「何でも起こり得る世界」に、無力な子どもとして居る事の心細さ、そこから生ずる不安感と云うものは、藤子作品においてしばしば描かれていると感じます。例えば「スネ夫のママ」が子ども同士の争いに首を突っ込み、無条件で我が子の肩を持ち“大人”と云う強い立場から一方的に相手の子どもに対して攻撃を行う様。こうした不公平性には、僕事依然強い恐怖を覚えます。また「オバQ」冒頭における忍者ごっこのシーンでは、遊びがエスカレートしていき、いつしか一線を越えて暴力を振るう快感(と云うものがちゃんと存在します)へと変わっていく予感が、どこか感じられます。そんな中、主人公を助けてくれる何か特殊な能力を持ったキャラクターが登場して話が面白くなっていくと云う次第ですが、助けてくれる何者かの登場は一方で、その者がいなくなった時どうなるのか、と云う不安感とセットな訳ですね(要は本人が成長しない事にはどうにもならない、と云う事なのでしょう)。
一方、死を身近に感じる事で生がより活き活きとする事と同様に、何でも起こり得る不安な世界において我々は時に心よりワクワクする様な体験もする事となります(それこそ藤子作品に描かれている事です)。またこうした不安感を持った状態は、しばしば感性を広げ、何て云う事のない風景が心に沁みたり、その時に聴いた音楽や読んだ文章は、自分の中で特別な位置を占めるものになったりもします。

大人になった我々は自我と云うものを認識し、また夜の闇を電気の明りで照らし、世界をコントロールする術を身に付けたかの様な錯覚を覚えていますが、今一度そこに潜む死の影に目を凝らす必要があるのだと感じます。

さて、ミュージアム屋外にはドラえもんの空き地を再現して3本の土管が積まれており、その横には件のドラえもんが。ノヅ氏の御要望にお応えして、氏とドラえもんのツーショット写真を撮って差し上げる。写真機を向けるに、氏はとても自然なピースサインにて応えてくれました。(中野)

2012年10月28日日曜日

録音日記(或いは報告書)



「録音日記」と題し、これまで何度か書いてきたけれど、本当に準備に追われている時には文章を書いている余裕が無い事に気付く。と云う次第にて「報告書」等と書き加えお茶を濁す。

さて、先日録音の初日が済みました。6時間かけて収録予定の3曲中、3曲のドラム、3曲のベース、1曲のギターパートを録り終えました。
録音の注意点と致しましては我々の場合“気に入らない部分を見過ごさない”と云う事でしょうか(まあ当たり前の事)。「ちょっと音が良くないけど、ミックス(録音した音の質や大きさを調整する作業)の段階で何とかなるんじゃない?アハハ」等と云って作業を進めた結果、あまり人にお聴かせしたくないものが出来上がる(そして結局、後日最初から録り直す)と云った経験はもう沢山なので。
                                                                         
どうでも善い事ですが(終始そうですが)、ギターを弾き終えた後、ピック(弦を弾く為に持つプラスチック片)をどこにやったか毎回の様に全く記憶に残りません。また、そこら辺に無造作に置かれたピックはカメレオンの如く風景に溶け込む為、発見が非常に困難です。

さて次回はいよいよヴァイオリンの出番。「買うのか高級弦!?」に御期待下さい。
(中野)

2012年10月18日木曜日

グローバル化とは



英語の語学書のタイトルには「ネイティブはこう話す」とか「そんな英語ではネイティブに笑われる」とか云う類のものが多い様子。物事の一面とは云え、こう云うのを目にすると欧米化奨励はまだ続くのか―と、少なからず不安な気持ちになるのが正直なところです(英語を学ぶ事の有効性にケチを付ける訳では決してありませんが)。

インターネットの普及がグローバル化を進行させ、我々が“日本の外から日本を見る視点”を獲得するにあたり一役買ったものと思われます。その視点は(取り分け我々日本人にとって)この先大いに役立つものに違いありませんが、“グローバル化と呼ばれる欧米化”と云う長らく続いている現象からは、すっかり脱却しないまでも、最低限認識くらいはしておかないとまずいと感じます。

この“グローバル化”例えるなら、運動神経の善いクラスのリーダー的存在サイトウくんを目標に、本当は一人で絵を描く事が大好きなヤマモトくんが無理矢理身体を鍛えている様なもので、自らの個性を埋没させる恐れすらある行為です。

加えて、もし学校のクラス全員がスポーツ万能だと、そんなクラスは面白くも何とも無い訳です。身体能力に長けた子どもが居て、漢字を沢山知っている子どもが居て、何を考えているか分からない子どもが居て、ギャグの水準が高い子どもが居て、南米の民俗音楽に明るい子どもが居て、皮肉屋が居て、お調子者が居て、泣き虫が居て、その様にしてクラスは初めてカラフルな様相を呈していく訳ですね。

クラスが楽しくある為には、皆がサイトウくんを目指すのではなく、それぞれが自身の特性を認識し深める事が重要です。クラスを地球に置き換えれば、グローバル化とは、様はこう云う事なのでしょう。

冒頭の、英語の話にしても、日本人が話す英語なのだからむしろ“ネイティブと一線を画そう”くらいの気持ちがあっても善いのではないかとさえ思います。そう云えば以前(正式な題は忘れましたが)「英語はありえないくらい、ゆっくり話そう」と云ったタイトルの語学書を見た事があって、なるほどと思ったものです(残念ながら、中身は読んでいないのですが)。
我々が日本語を話す外国人と対面する際を思い起こしても分かる様に、母国語とは別の外国語を話す相手に対し、言い方や発音の誤りについて嘲笑する者が居たならば、レベルが低いのは明らかに嘲笑した方と云う事になります。
まあ、何度云っても相手に全然通じない時には確かに或る種、切なさにも似た無力感が湧いては来ますが、それは同じ言語を話す相手にもしばしば起こる事ですね(むしろ言語が同じ分、無力感は深くなります)。

20世紀、西洋文化の取り入れ(つまりは近代化)にいち早く成功した日本ですが、西洋文化だけではグローバルに立ち行かなくなっている現在(人間、合理的な事ばかりはしていられないと云う事ですね。我々の多くが経験している筈です)、洋の東西の狭間にて我々に担える役割があると思われ、またそれは21世紀において一つ鍵になるものと思われます。
「それでは具体的に何をすれば善いのか」と云う問いの答えはいつ出るものとも知れませんが、僕の場合には曲を書き続けております。(中野)

2012年9月27日木曜日

ザッツ文!



今年も旅行に行けぬままに夏が過ぎ去ってしまった為「果たされなかった旅情の復讐」と云うテーマにてつらつらと書いて行く次第。

先日実家に熊本ラーメンが送られてきた。ラーメンなのに袋ではなく箱に入った一寸立派なパッケイジ。手に取りふと見やるに、裏面に店舗案内の簡単な地図が印刷されているのを発見。周辺の駅、公共の建物、主な道路、そしてお店の場所なんかが記号的に小さく記されている。

地図と云うものは時にどうしようもなく旅情をかきたてるものです。「西銀座通り」なんて命名された道路、その周辺のうらぶれ具合なんかに思いを至らすと、もういけません。実際にその場所に行って、周辺を練り歩いてみたくなってしまいます。知らない名前の駅、知らない名前の鉄道、地元の小学校、スーパーマーケット、取り分け観光地ではないその街で、あなたが旅行者である事は周囲から一目瞭然です(何だか少し、自分がその街のゲストになった気が)。開放感と、いくらかの不安感が入り混じる。そんな何やかやが、旅行の醍醐味と感じます(どちらかと云うと1人旅の醍醐味でしょうか)。

僕事かつて暇な頃には、今回の熊本ラーメン程度のきっかけさえあれば、実際に―最低限の荷物をまとめ、18切符を購入し―1人でふらりと1週間ばかり旅行に出かけていたものです(またいつか、そんな旅行に行けるのかしらん)。

さてさて、鈍行列車にて、大したアテの無い一人旅をするに際し必需品となるのが、一冊の本と、それからまだ聴き込んでいない―1曲目から最後まで通して聴ける様な―優れたCDのアルバム盤です。
道中そのCDを聴き続けていると、後日聴き返した際に、旅行中に味わった開放感、その時の新鮮な空気を、音楽を通しありありとその場に感じる事ができます。不思議な事に何度も聴き込んだCDだとこう云う事は起こりません。この感覚は、手付かずのまっさらなCDにのみ沁み込ませる事が出来ます。


山のただ中を走る、三両編成の電車内。

地元の高校生。
荷物を持った外国人観光客(こんなところまで、何を見に来たのだろうか)。
辺りの風景に善く馴染んでいる様に見える老人。
アルミのサッシに彫ってある古い落書き(平成×年 誰かの名前)。

自然がヴォリューム感を増していく程に逆説的に得られる静けさ―無人の駅に電車が止まり、ドアが開くと、一斉に蝉時雨が降りしきる。

あなたは本を読む。
読み疲れたら音楽を聴く。
アルバムが一周したら、景色を楽しむ。
電車が終着駅に着くまで―或いは、ふと思い立ってどこかで途中下車をするまで、そんな事を繰り返す。

至福。


しかしここ何年か、僕事この『旅行中聴いていた音楽で、当時の感覚甦り現象』が起こらなくなっております。「さては感性が磨耗し、旅行中の新鮮な感覚を感じ難くなってしまったのだろうか」等と考えましたが、恐らくは“慣れ”の為かと思えます。つまりは18切符で移動し易い場所―本州―程度の距離感に身体が慣れてしまい、「またか」と云った体となり、その為開放感や不安感をあまり感じていないのかと。

と云う次第にて、“慣れ”と云う人間が持つ文明の発達に欠かせない感覚の為、僕事更なる遠くへと行くのでしょう。先ずは九州、四国、北海道へ!(中野)

録音日記(3)



かつて某有名ボクシングジムの会長が練習中「カッコつけてやんなさい」と云っておられましたが、これは代々木体育館を設計された丹下健三氏の「機能的なものが美しいのではない。美しいもののみ機能的なのだ」と云う名言と、同じ事を指しているものと思われます(異なるジャンルとされているものから、同じ内容の格言が飛び出す事は少なくありません。やはり到達する極みと云うのは、共通するものなのでしょうか)。

例えばプロフェッショナルな楽人は、見た目にも非常に美しく演奏するものですが、実はそれこそが巧みに演奏する条件なのですね。

また、名ヴァイオリニストの演奏を映像で見た途端に、(その動きをイメージする事で)自らの演奏まで上手くなっている―と云う事もあります。

(服装とかではなく)“形から入る”事は何て有効なのか―と近頃つくづく感じます。

―と云う次第にて、ヴァイオリンの出番が多くなりそうな次回の録音に向け、姿見を見つつ練習(と云うよりもリハビリ“と云う言葉がしっくりときます)中です。

前作では、ヴァイオリン演奏の拙さに曲の性格まで変えざるを得なかった、と云うよろしくない事態が起きた為、今回こそは何とか立派に弾くべく準備を進めております。
(中野)

2012年9月16日日曜日

岡本太郎美術館へ



平日の昼日中より@nozushiさんと共に行く“大人”をテーマとした散歩、今回は川崎市にある「岡本太郎美術館」へと行って来ました。

残暑厳しい中、向ヶ丘遊園の駅前で待ち合わせ(ノヅ氏が、先日氏の誕生日に贈呈した筆入れのお返しにと、鳥取の鬼太郎キャラメルをくれる)。美術館へは徒歩で向かう。
歩く事10数分、いつしか小高い山へと足を踏み入れ、気温も心なしか低くなる一方、街とは少し違う空気に、我々を待ち受けるものへの期待が否応無しに高まる。

―と云った体にて館内へ。

岡本太郎さんの作品において最も特徴的なのは、縄文土器以来日本の美術品に見られなくなった「呪術性」「原始性」と云ったものが表されている点だと云えましょう。
あの生命の躍動感は―同じ日本的な絵画*でも―浮世絵のシレーっとした感じとは真逆のものです。ディフォルメ化と云う両者の共通項から見れば、あたかも同じ器に別のものを注ぎ込んだかの様。

そして浮世絵と比較した際の、もう一つ大きな違いは“岡本作品は芸術作品”と云う点です。

「芸術作品には1人の人間が生きた事を感じさせる何かが無ければいけない」と云ったのは詩人の中原中也ですが(確か)、そもそも浮世絵に止まらず江戸時代までの日本美術作品を見れば、芸術作品―1人の人間が自らの何かを表現すべくして作ったもの―と云う感じがあまりしません。そこにはしばしば素晴らしい美があり、非常な表現力がありますが、やはり作者の視点と云うものを感じさせないだけの“引き”が感じられます(凄い芸です)。そしてそこには見る者が入り込めるだけの余白が生じます。これらの作品を見ると、現代で云うところの「芸術」とか「アート」と云う感覚で作られてはいないと感じられます。

一方の岡本作品には(多くにおいて)、“引き”と云ったものは無く、作品の中で岡本太郎さんと云う人間が盛大にはじけています。それは無論物凄い事ですが、そんな作品を見ていると時に疲れます(ただ、氏は人間が共通して持っている根源的な部分まで自らを掘り下げた上で、作品として昇華している為、見る者はそこに、自分も含む人間の普遍的な部分を見出す事ができます)。流石「芸術は爆発」と云い放った御仁です。

これはどちらが優れている、いないではなく、ただスタイルの違いと云えますが、表現力を爆発させる事で失われるものもあるのですね。

個人的には、偶に館内の片隅に展示されている造形作品―薄暗い中、何かの顔や生き物がひっそりと佇んでいる―のを一寸覗き見るのが非常に面白く感じられました。分かり易い表現力を持ったものが、少し引いた所にある事で何かバランスが取れている為でしょうか。

後、面白かったのが子どもの落書きを造形にしたかのごとくディフォルメ化された犬。こんな生き物は居ないにも拘らず、今にも喋り出しそうな(吠えるよりも喋りそうな犬です)、非常に生き生きとした感じがしたのを忘れられません。

何か感想が子どもっぽくなってきたところで(“大人”がテーマなのにな)また次回!
(中野)


*フランス留学で吸収したものもはっきり表れる岡本太郎さんの絵画を「日本的」と云い切ってしまうのは語弊があるのかも知れませんが、何しろ縄文的です。

2012年9月6日木曜日

春九作さんについて



今年の初夏、次作CDジャケットのデザインが決まらず(また技術的な問題もあり)頭を悩ませていた或る日の事「すごい絵を描く人がいます」とサイキミホサン。携帯端末から見せてくれたのが春九作さんの作品でした。

春女史の作品を見て僕事常に感じるのは“日本的な素晴らしさ”です。

縄文土器の頃から日本人の得意技の一つとして「引き算の表現」と云うものがあります(つまりはディフォルメ化)。
一方ヨーロッパの古い絵画を見れば写真機で写し取った様な写実的な絵が主流ですが、これは「足し算の表現」と云えましょう。

なるべくシンプルに、余分なものを削ぎ落としていく事―つまりは誰が見ても分かる様に簡略化していく事は、精緻に肉付けしていく事と同様、非常な表現力を獲得する為の手段です。

あたかもCDのデジタル信号を読み取り、再生機が美しい音楽を奏でる様に、ディフォルメ化された表現は或る種、記号として脳内に取り込まれ、そこに言葉で表現出来ない色々を描かせるのでしょう。

僕の感じる日本的な素晴らしさと云うものも、一つその点にあります。

しかしまあ、百聞は一見にしかず―と云う事で御覧ください!



「引き算の表現」を用いた絵と云えば、浮世絵が代表格ですが、春女史の作品にもそこに通ずるものが見受けられます。しかし突出しているのが、他に類を見ない程の無国籍性でしょう。
かつて大陸からの文化を吸収しつつ「和」と云うものを形成した日本文化の土壌が、現在では欧米文化を吸収していますが、春女史の作品を拝見するに、その日本文化の土壌となる部分に、徹底的に磨きが掛けられているものと感じます。土壌となる部分を追求していく程―逆説的に―無国籍性を得ていく。そんな日本文化の非常な面白さを表した作品です。

春九作さんの作品に出会えた事、そして絵まで描いて頂ける(何とサイキミホサン、インターネットで偶然にも発見した春女史の作品から御本人にコンタクトを図り、ジャケット制作の依頼をしてくれていた。そして引き受けて頂けるとは!)事は、ユーディットにとって―そして僕個人としても―非常に幸運な事と感じます。

と云う次第にて次回のユーディット、ジャケットに御注目ください!
(ええ、中身もねちゃんと作りますからね
(中野)

2012年9月4日火曜日

録音日記(2)

表題曲「アカデミック」。
録音に際し加える「ライヴには無いもう1パート」を探るに、その後“どうやらヴァイオリンらしいね”と云う事が判明。取り敢えず曲の全貌がつかめ一安心。
(小室氏のチェロ、今年二度目のお目見えは先送りとなりました)

その他試したもの

エレクトリックギター
コントラバス
チェロ

以上

コントラバスとチェロはシンセサイザーの音だった為ホントのところは分かりませんが。
(て云うか、コントラバスなんてどこにあんのよ、あんた)

―と云ったところで、昨夜は地元のスタジオにヴォーカルスタイルを探るべく―マルチトラックレコーダ(MTR)を鞄に詰め―歌いに。
この曲歌い方には他にもアイデアがあったものの、結局ライヴと同じスタイルで歌うのが最適と、即座に判明。
 まあ、アイデアがあろうとできる事は1つだったと云う事ですね。いかがでしょうか!引き出しの少なさを逆利用したスピード手法。

しかし、録音したものを聴いて初めて気付いたのですが、この曲、歌詞の一部が一寸全体の足を引っ張っている(この辺り距離を置いて聴けるのもMTRの効用の1つ)。

冒頭に「インスタントみたいな奉仕」と歌っているのを、サイキミホサンに“あの「インスタントみたいな星」っていうところ、いいわよ”と褒められたのをヒントに書き直して 、取り敢えず仕上がる。

バンドとして活動をしていて感じるのは、複数人が関わる事で生じる別視点―しばしば、誤解や間違い―と云ったものが、1人では思いつかなかったであろう面白いものを生み出すと云う事です。

ただ、初めから何人かでもの作りをしていってもこう云う偶然は起こらなくて、誰かが1人磨きに磨いたものに、別の誰かの、新たな視点が入り込む事でそこから飛躍する―事がある様に思えます。

(因みに前作「プラスチックハント」にて曲を通し鳴っている“シャア シュ” と云うシンバルの音〈これで分かった方、僕と握手!〉。これも僕が書いたフレーズが小室氏に上手く伝わらぬまま、氏が鳴らしたものがそのまま満場一致の採用を受けたものです)

―と云う事で、僕事以前より、1人でぜんぶ曲を書く音楽家は凄いなあ、1人でよくできるよなあ―等と思っていたところ、中村一義さんが“もう1人の自分と一緒に曲を書く”と云う様な事を仰られているのを耳にし、納得したものです。

ものを作る上で「別視点」と云うものは往々にして有効ですね。

 
 ―と云う次第にて、表題曲が一応のカタチとなり少し気持ちに余裕の出てきたユーディット。

さて、次なる課題やいかに...!(中野)


2012年8月30日木曜日

録音日記(1)


次作のCD、本腰を入れて作り始めています(数ヶ月前にも本腰を入れて録音したのですが、その時は失敗しちゃった)。

CDの音楽には、聴き手が一人静かに、とても個人的に作り手と繋がると云う―空間を共有するライヴ演奏とまた違う―効用がある訳ですが、その為作り方もライヴとは少し変わってきます(このあたり人によって意見が異なるのだと思いますが)。
―と云う次第にて、次回表題作「アカデミック」ライヴ演奏ヴァージョンにもう1パート加えるべくこの数日、購入して間もないマルチトラックレコーダを使い模索しております。


―や、重ねるべきはどうやらギターではない様子。もしや通奏低音か....?

―あ、小室氏がチェロを持っているじゃないか!

―ああ...でも今年になって一回くらいしか触っていないって云ってたな...      (ボロが出るだろうな)

―仕方ない、やっぱもっかいギターでトライ!


等とやりながら毎晩夜更かし。

以前はこの模索作業、録音の際スタジオにてしておりました。
レンタル料金が・・・!(中野)

2012年8月6日月曜日

宮沢賢治とバッハの共通項について


童話にて親しんだ、宮沢賢治さんの詩を初めて読んだ際に「これは難解」と感じました(魅力的ではあるのですが、どうにもするすると読めてしまうものではなかった)。ムズカシイ言葉が多く用いられていた事が1つの所以です(時には科学の専門用語も登場)。有名な雨ニモマケズ―と云うのは、彼の書いた詩の中でも非常に分かり易いものだったのだと、その時に知りました。

話変わって、僕事高校生の頃より暫くヴァイオリンを習っていたのですが、練習曲がバッハだと嬉しくありませんでした。それまでにもしばしば課題として出てきた―どちらかと云うと機械的な、あまりメロディアスではないと感じる幾つかの曲に、当時それ程共感できなかった為です。

さて、この両者の共通項を挙げるならば、1つの単語、1つの音に意味は無く、その配列の妙こそが重要と云う点でしょう。意味を追ったところで大抵分かりません。それよりも、その連続性に身を投じることで―どちらかと云えば身体から―実感する作品と感じます。逆にもし11つの言葉や音に意味が生じてしまうと、ゴチャゴチャとしてしまい、自由にずらりと並べ立てる事が出来なくなります。
蛇足ですが、その点尾形光琳の燕子花図屏風と比較すると面白いかも知れません。彼のカキツバタ、全て三色のみで同じ様に描かれた非常に無個性なものですが、故に如何様にも並べる事が出来るのですね。それぞれが自己主張をしていれば、あの美は生まれません。ダイナミックでありながら非常にすっきりとしています。―と云うよりすっきりとしているからこそ、あのダイナミズムが現れるのでしょう。

現在では、宮沢賢治もバッハも僕にはとても大切なものの1つです。何と云いましょうか「正しい言葉(音)を正しく並べただけです。自己表現等は特にしていません」と云った感じがしてとても善いです。

仕舞いに酷く個人的な事を申し上げると(毎度の事ですが)僕事詩を書く際は、先ず曲ありきで、音がその旋律にぴったりとくる言葉を選び、意味は後付け、時には無し―と云う手法を主としています(初期の曲に至っては、全ての旋律に詩を付ける事すらままならず、歌詞の無い部分が結構多い―しかもCDにして売っちゃった)。数年前、件のアルバムを発表した際、御近所の方に買って頂き「すごいね、むずかしい言葉をいっぱい知ってるんだね」と褒めて頂きました。もっと芸を磨かなければいけないと改めて決心したものです。(中野)

2012年7月31日火曜日

ザッツ文!

企画に関わる作業も一段落したところで、久しぶりに気の向くまま文章をタイプしてゆこうかと思います。

昨年の春、シルク・ド・ソレイユの「KOOZA」が来日した折の事、幕間にクラウンが出て来て観客を巻き込んでの芸をしておりました。つまりは客席より1人を選び舞台に上げ、お客さんまでをも笑い者にしてしまおうという 、見ている方も一寸ドキドキする芸です。
但し矢張り選び方には基準がある様子で、見ていると結構身なりの良い人が舞台に連れて行かれていました。
それなりの社会的地位と、そこに付随する権威的なものを笑い(それも、なるべくミもフタもない)により払うという行為なんですね。つまるところシェイクスピアシリーズにしばしば登場する「道化」の役割そのままと云う事です(彼らは王様を笑い者にしますが)。

恐らく権威的なものというのは、本人が自覚している以上に身にまとい易いもので、一時的にせよそれが通用しない舞台にポン、と裸一貫(と云うのはあくまで例えですが)で上げられた折に、別視点より知らずに自らがまとっていた社会的地位やら権威やらを目にする事ができるのでしょう。そして、お馬鹿をやらせると右に出る者が居ない―と云うクラウン達の手によりそれらは払われ、仕舞いには客席より盛大な拍手が貰えると云う一連の流れ。

予定調和も無し、素晴らしい芸ですね!

 権力が別角度からの視点を獲得し、バランスを保つ為に、笑いと云うものは非常に有効な手段と思えます。

ちなみにその時僕事、自らのワードローブの中では最もシックな成りをしていた為、クラウンが近付いた折「まさか舞台に連れて行かれはしまいか」等とドキドキしましたが、素通りでした。
ジーンズを穿いていたのも一つの要因かも知れません。(中野)

2012年7月29日日曜日

御礼

7月28日「秋葉原100景」に御来場頂いた皆様、本当に有難うございました。

共演バンド並びに、秋葉原CLUBGOODMANスタッフの皆様、鏡音リン・レンに扮し司会進行をしてくれた優馬ちゃん、麻輝さん、 企画の模様を写真に撮ってくれた羽鳥さん、フジロックより帰宅したばかりで駆けつけてくれたノヅさんもありがとう!(中野)

2012年7月16日月曜日

モアレコードについて


モアレコードは図書館の様なCDショップです
我々はそこで目にとまった一枚を手に取り、そばにある丸椅子に腰掛け、心ゆくまで試聴する事ができます(試聴できないCDもあるのでしょうが、できるものがとても多い)。
勿論、現在では試聴機を置いていないCDショップの方が稀ですが、モアレコードでは何と云うか、より親密な状況がそこにあります。あたかも図書館に入って、本棚の中たまたま目に付いた一冊を手に取り、そこの閲覧コーナーにて読んでいるような、一寸そんな感覚です。


大宮区役所前の通り、歩道から直接上がれる深緑色の階段(それ程新しいものではなく、金属製の為一歩進む度、足音が必要以上に大きく響く)、それを上りきった所に鉄の扉が見えます(或いは、その扉は開け放たれているかも知れない)。
→木製の床。こざっぱりとして明るい空間(店の中は大抵ひっそりとしている)。まだ見た事の無い数多のCD―それらはどれも手書きのコメントカードが添えられていて、どれもジャケットがこちらを向いて並んでいる!

こう云うのって一寸わくわくしませんか?(中野)

2012年6月24日日曜日

江戸東京博物館へ その2

前回の続き。

江戸時代の浮世絵~明治の頃の写真迄、様々な作品や資料から日本橋を見ていこうと云う特別展示が、現在江戸東京博物館にて開催されています。

普段浮世絵を見に行く時は作者ごとの展示が多いので(国芳展とか広重展とか) 、一人の絵師の世界に入り込んでいく事となりますが、今回は複数の絵師による作品が一堂に会している為、図らずもそれぞれの作風の違いが目につきました。

改めて広重って良いですね!
何て云うか、シレーっとしています。すぐ近くに居ながら、同時にとても遠い所から物事を見ていると申しましょうか。目の前にあるリアルな視覚情報を既に歴史の一項として捉えていたのだと思わせます。
蛇足ですが、僕にはこの感覚が歌う際に不可欠なものと感じられます。これはヴォーカルスタイルに起因するのですが声を嗄らして歌うとなると、あまりに「熱く」なりがちなので(特に日本語にはその傾向が強いです)、その際は自分の中にシレーっとする余白の様なものを残しておかなくてはいけません。
ノヅ氏の言葉を借りるなら「客観性」と云う事になります(氏はいつも上手い言葉を選びます)。

 話を戻し―浮世絵には往々にして、作者の視点を感じさせないだけの「客観性」があります。その要因の一つは遠近法を用いない事にあるのでしょう。
遠近法は視点を一箇所に定め、そこ(つまりは作者の立位置)から見える物を描く―と云う事になるのでしょうが、浮世絵の場合よくよく見ると一箇所の視点からは見られない物が細部に描かれています(例えば瓦屋根や板塀一枚一枚の幅が、どこまで行っても均等に見えていたり)。そんな絵を前にしていると、確かにそこに居るのにも関わらず、どこに立っているのか分からない、あの世からこの世を眺めている様な感覚があります。
そして広重の絵からは取り分けそれが感じられます。


出口付近にて。そもそも特別展示のタイトルが「日本橋」なのにも関わらず―なんだかこの展示は日本橋ばかりだったね―等と云う感想を漏らしたのは私です。
コンセプトを理解しないばかりか、思いを至らす事もなく見てしまった次第ですが、 常設展示と併せ大満足の内容でした。(中野)

2012年6月9日土曜日

江戸東京博物館へ

先日@nozushi さんと江戸東京博物館に行って来ました。

平日の昼ひなか、両国の駅に集合し博物館へ向かうに、熱気漂う大相撲の時期と違い街は「開店休業」と云った体。

現在日本橋をテーマにした特別展示が催されているのですが、その中に江戸時代、隅田川沿いの町並みを描いた10メートル程の巻物があります。

 川のこちら側には幻想的な雲が立ち込める一方、あちら側はクリアな視界。川は彼岸と此岸を分けるもの、と云う事か―等と考えながら見進んで行くに、途中ノヅ氏がデッサンの誤りと思われる箇所を発見し、教えてくれる。見やるに、確かに氏の云う通り隅田川に架かる橋が何だかずれている。と云う次第で、その後も橋が登場する度シビアな視点より見やってみる(やっぱり時々ずれている)。
これはクサす為ではなく、日本有数の博物館に展示される事により付随してしまう余分な権威を掃う為、と云う事になっています。そうする事で膝を突き合わせて作品と向き合えるし、江戸の日本画は、例えばキリスト教的に真面目な西洋画と違い、くつろいで膝を突き合わせ眺めるのが正しい鑑賞法です(何やら云い訳じみてきました)。
「歴史ある素晴しい日本文化」という前提を作ってしまうと、その作品が持つ「陰」や「負」の部分が見え難くなるもので、それももったいない事ですね。

巻物を見ているさなか“先に行った人が矢鱈に戻って来る”等と思っていたところ、我々が順路を逆行していた事が、終わりにさしかかった頃判明しました。(中野)

2012年6月6日水曜日

御詫び

以前御知らせしたラジオの件、5月12日をさかのぼる事一週間、5日にはオンエアされていた模様です。
失礼致しました。

関係者の皆様に御礼申し上げます。

御詫び傍々

匆々

2012年5月27日日曜日

コンパクトディスクへの詰め込みについて

CDの再生時間が74分と決まったのは、ソニーがヘルベルト・フォン・カラヤンに相談した結果ですが(確か)、それはあの1時間もあるベートーヴェンの第九交響曲が収録できる様にとの計らいでした(カラヤン指揮だと1時間程ですが、指揮者によって曲の長さが変わる為余裕をもたせての74分)。

「LPと違い、途中で引っ繰り返さずとも仕舞いまで聴けてしまうこの画期的な新商品、あの長大なベートーヴェンの交響曲が収まるだけの容量があれば大丈夫ですね!」

「ソレニ ダイク ワ CDノナガサ ヲ キメルニフサワシイ リッパナ サクヒンデス!」

―等と云う会話がなされたかは分かりかねますが、かくしてCD→74分と云う決まりができた次第です。

ところで、“74分あるとなればそこになるべく多くの曲を収録した方が、商品としてお得感があるな、ヒヒヒ”と云う呟きが聞こえてきそうなCDが(特にクラシック音楽に)多くあります。
例えばシューベルトの『白鳥の歌』(全14曲)の後、更に数曲の歌曲をプラスして“トータル72分45秒”等と表示されているのを目にすると、いかにも詰め込める曲目を探してきた感じが滲み出ています。
その様な詰め込みが、予期せぬ曲との出会いに繋がらぬとも限りませんが、実際には消化不良を引き起こす事の方が余程多い様に思えます。

つまりは、『白鳥の歌』を聴き終え、お腹が一杯になった状態で聴いてしまうあの歌曲と、もっと別の出会い方をしていれば、今とは違った聴こえ方がしていたかも知れないね―と云う話です。

ただ、例外的にベートーヴェンの『運命』・『田園』のカップリングは、それぞれが独立した大作であるにも関わらず、詰め込み感が全く無いように感じます。
ベートーヴェンはヘヴィでシリアスな運命交響曲を書く行為とバランスを取るかの如く、ハッピーな田園交響曲の執筆を平行して進めていったそうですが、それを聞いて成る程と思います。そもそも2曲間のバランスが善いのですね。

話を戻し―そう云えば画集を見る際も、パラパラと頁を繰って見ていくより出鱈目に開いた1頁をゆっくり眺める方が、絵が面白く感じられます。(中野)

2012年5月20日日曜日

御知らせ

ツイッターを始めました→ @youdit123

匆々

縄文土器を見た感想


先日、さいたま市大宮区にある市立博物館(程好くうらぶれている)にて縄文土器の展示を見て来ました。
縄文土器は早期・前期・中期・後期・晩期―と云う具合にて年代ごとに分けられているとの事。それを順に見ていくと、あたかも一人の芸術家が一生の内に見せる作風の変化を目にする様でした(実際にはそこに、1万年以上の時間経過がある訳ですが)。

早期→土器としての体を形作るだけで“もう充分に用を成しています”と云った印象(大
   発明だったのだと思う)。
前期→土器の形や模様に凝り始める(このあたりから、先に挙げた芸術家の例を引き合い
   に出せそうです)。云うなれば自らのスタイルを確立しつつある時期。
中期→形や模様に凝っていたのがエスカレートしていき、仕舞いに爆発している時期。芸
   術作品としてはこの頃のものが最も分かり易く、一般に「初心者向け」とか「入門
   編」とか呼ばれそうなものが多いと思われる。ベートーヴェンで云うところの「名
   作の森」か。
後期→中期のダイナミズムを内包し乍、装飾的な部分を削ぎ落とし洗練されている。作品
   群の勢いは中期の方が盛んだが、最高傑作と呼ばれるものが恐らくこの時期に作ら
   れる。
晩期→この頃の作品は芸術家の発展ラインから逸れ、実用的な「食器」と成ってきてい
   る。急須の形も既に存在。

-と云った様子。
細部を見やると混沌と渦巻く一方で、全体を眺めればそこに秩序を見出せる―と云うデザインが縄文土器を作る上での基本となっていて、それは同時にあの非常な呪術性の、一つの所以と云えます。
大収穫の上に入場無料、当日大満足で会場を後にしました。(中野)

2012年5月12日土曜日

謝罪文

前回に御知らせ致しましたラジオ放送の件、今週は実現されませんでした。
ご迷惑をおかけした皆様へ深く謝罪申し上げます。
ご免なさい。
今後の予定が判明し次第に、また追って御知らせ致します。

何卒御容赦の程懇願申上げます。

匆々(中野)

2012年5月5日土曜日

お目見え情報

むさしのFM5月12日(土)19時~の番組中@nozushiさんのコメントにて、ユーディットを紹介して頂けるお話が浮上しております。

土曜の夜はダイヤルを78.2に
むさしのFMで僕と握手!(中野)

2012年4月27日金曜日

フレッド・ブラッシーと対立の話

昭和のヒールレスラー、フレッド・ブラッシー(噛みつき攻撃で有名)はプライベートでは元より非常に紳士的だったとか。
という次第で、初めてリング上の彼を観た母親がショックを受けて曰く 「普段の優しいお前とリングに居る時のお前、どちらが本当なんだい?」
それに対し息子答えて曰く「どちらも本当ではない」

等という話を以前NHKで聞いた覚えがあります。

物事の本質というのは往々にして、対立する何らかの間に生ずる距離感に宿っているものと思われます。
陽気と不機嫌が混在する、と評されるベートーヴェンの音楽や、正しさと奔放さが両立するバッハの音楽等、善い例ではないでしょうか。

話を戻すと、本当は紳士的なフレッドさんがパフォーマンスとして公の場では悪役を演じている(或いはその逆)という事ではなく、紳士的な人間が或る時点に於いて悪になり、そこが(彼の母親の質問に答える上で)とても重要、という気がします。

対立というものは混乱を生じさせる事もしばしばですが、排除するよりも受け入れる姿勢を持つ事でその対立間に言葉で説明し難い―そして、時に何か本質的な―ものを見付ける事ができそうです。 (中野)

2012年4月12日木曜日

後期ベートーベンと俳句について

近頃、後期のベートーベンをよく聴きます。
「運命」や「田園」に代表される中期の作品(いわゆる名作の森)と比べると、深みはあるもののやや入り難い―等と感じていたのですが、後期の弦楽四重奏を聴いているとそこに俳句でいうところの“切れ”に当たるものがあると感じました。
つまり

夏草や兵どもが夢の跡

ではなく

夏草や 兵どもが 夢の跡

という事ですね。

頭の中で一つイメージが浮かぶ事で、急にすっとピントが合う様に何かが理解できる事があります。(中野)

2012年3月28日水曜日

「プラスチックハント」お取扱い店舗情報

シングル「プラスチックハント」ディスクユニオンにて広く取扱って頂いております!
前回御知らせした下北沢店に加え、お茶の水駅前店、新宿本店地下一階、中野店、吉祥寺店、町田店、北浦和店、池袋店、渋谷中古センターにて置いて頂いているとの事。何かバンドの活動場所まで考慮して頂いている御様子。(中野)

2012年3月20日火曜日

「プラスチックハント」お取扱い店舗情報

プラスチックハントをディスクユニオン下北沢店にて取り扱って頂いております。
ユニオンへゴー!

二伸
「大夕帝都」→「人物」の頁、メンバーの顔を載せねばと思いつつも怠けていた矢先の事、ベース担当のサイキミホが各々の絵を描いてくれました。
先の企画の際にも、スタッフとして活躍してくれた友人やバンドのメンバーを見て感じたのですが、大人になると皆何らかの特殊技能を身につけているもので、幾人かが集まると何か面白い事が出来る様子。

蛇足ですが通学していた時分、文化祭等の行事が催される日には「学校は休み」と決め込んでおりました。(中野)

2012年3月6日火曜日

国芳を見た感想

雨、霧、夜等
浮世絵にはかなわない表現 真骨頂!
水を布の様に描く 形無きものをカッチリ描く
引き算の表現 ディフォルメ化

以上、先日歌川国芳展を見に行った際に書いたメモです。
何の事やら、と言った内容です。

僕事自分で書いた筈のメモを後になって読み返し理解できない事態もしばしばですが、今回は善く分かります(それが普通ですが)。

何はともあれ浮世絵っていいですね!
人の賑わいやら息づかいやらがすぐそこで感じられそうな一方で、どこか別世界、別の時間軸の風景を目にしている気にもなります。
取分け雨や夜といったものに惹かれるのは正にその点、肌で感じていながら全く別の場所にて呼吸していられる二重性とでも申しましょうか。例えば大雨であればある程に、部屋から眺めるのが楽しいと感じたり。蛍光灯の明かりの室内より、ちょっと顔を出して闇夜を覗き見る際の安心感と不安感の入り交じった、名状し難い感覚であったり。

引き算の表現云々というのは日本人が得意とする表現法ですね。
例えば無形である筈の水の流れをまるで一枚の布であるかの様に描く—本質を捉え周りのものを削ぎ落とす—事で逆に何よりも水になるという。
具体例とは言えませんが、浮世絵からアニメーションへと至る流れが最も適当な例えでしょうか。

因みに開催場所は六本木ヒルズ。やはり迷いました。(中野)

2012年2月22日水曜日

踊る電信柱

どう言う訳か電信柱に心惹かれます。
取分け、夕闇の中、暮れかけた空の色を背景に真っ黒いシルエットとなってそびえる様、そこから遥か遠くへ走る電線等は見飽きる事がありません。

という次第でユーディットの標章は「踊る電信柱」です。

個人的な趣味のみを反映した訳ではないのですが。(中野)

2012年2月20日月曜日

落語を見に行こう

先日は友人ノッヅ氏と二人、新宿末広亭にて落語を見てきました。大相撲を見る時の様に、お客さんは思い思いに寛ぎながらの観賞といった体で空間そのものが大らかでした。
笑点ではあまり目立たない小遊三さんが、他の噺家よりも頭一つ抜きに出て面白かったので、今更“大御所なのか”等と実感した次第です。

落語の他、コントもあり面白かったのですが、日常から別の日常へとふと入ってしまう感覚は落語特有のものと感じました。そしてオチの瞬間にパッと「こちら側」に戻って来るという。噺家と観客が共有できる快感がありました。(中野)

2012年2月13日月曜日

プラスチックハントのデモ音源にて。
歌詞カード中“生憎、壮大な井に慕う”と書いた下に、井戸の中から蛙が「ここにも一つの世界が…」と発言している絵を描きました。小室氏の(彼には珍しい)強い勧めによるものです。
解釈としては「宇宙の大きさは様々」でしょうか。(中野)

2012年1月31日火曜日

シングル「プラスチックハント」お取扱い店舗情報

本日大宮駅東口にあるCDショップmore recordsにて、CDを置いて頂ける運びとなりました。
大手のCDショップとは一線を画す品揃えのお店です。
“手持ちのツールを駆使し、新たな音楽を発信!”と言いましょうか、音楽家と非常に近しい視点にて商いをされているといった印象を勝手乍感じました。

CD取扱いも快く引き受けて下さり、僕事営業は不得手な分野にも拘らず、今日はついつい長居をしてしまいました。

という次第にて
プラスチックハントお取扱い店舗

more records
http://www.facebook.com/more.records

モアレコーズにゴー!
何卒々々(中野)

2012年1月29日日曜日

ノーマル

シングル「プラスチックハント」のトラック2。
この曲楽しげなギターのフレーズから、当初は“小さな子どもが喜ぶものを”等と目論んで書き始めた次第ですが、出来上がった詩を読むと『対象年齢十代~』といった様に見えます。(中野)

2012年1月23日月曜日

企画の後で

ユーディットCD発売に伴うイベント「無機質なハント」に御来場頂いた皆様、行こうとしつつも行かれなかった皆様も、どうも有難うございました。

おかげ様で盛況の内に企画を終える事ができました。
昨夜のあの空間は、あの場に居た全員で作り上げたものに他なりません。

そして、出演者並びに秋葉原CLUBGOODMANスタッフの皆様、初音ミクに扮して司会を務めてくれた優馬ちゃん、会場を素敵な写真で飾ってくれた羽鳥さん、プロモーションに暗躍してくれたノッヅにも感謝します。(中野)

二伸

今後の演奏日程もこちらの「雑文」にて御知らせ致します。時々御覧下さいませ。

2012年1月21日土曜日

お詫びと訂正

昨年配布していたデモ音源に、おまけで付いていた漫画「徒然夕帝都」での事。

僕事、画中「カルボマー遊び」という曲について “この様にお馬鹿な曲はシングル盤に収録できない!” 等と発言するのですが、

収録致しました。


聴いているうちに “まあいいじゃない” と思うようになってきた為です。

いい加減と言えばいい加減。

融通が利くと言えば利く。

どうぞ、御容赦と御了承の程を。(中野)

2012年1月6日金曜日

ときに極端な日本文化

現代では、日本人にとっても「和」というものが異文化になってきたように感じます。
 「和風デザイン」とかいうと敢えてそうしたという感じがして、我々(の多く)の日常と少し距離を置く趣があります。
例)
栄子「あたし一人暮らし始めるならぁ、部屋も小物もぉ、全部和で統一しよっかなって思ってんだぁ」
微意子「へええ」

日本文化には幾何学模様の入ったペットボトルのような面があって、そこに何らかの原色を注ぎ込む事でその模様が鮮明になると言いましょうか。
20世紀に欧米文化が大量に流れ込んできて、その中で生まれ育った世代としてはそれ以前の「和」というものが自分達とは少し距離をおくポジションに置かれるのが、まあ自然だという気がします。
ペットボトルの中身としては日本の場合「水」 の文化でありましょう。透き通っていて、目を凝らすと幾何学模様が見えてくる(目を凝らさないと見えないので、微妙な表現が発達する)。その「水」はしばしば流れ込んできた原色を薄めたりもします。 巷には大音量の歌謡曲を演奏する“ロックバンド”が多くいます。良いか悪いかはさておき。
一方で日本は時折強い原色を発します。

一位 縄文土器
二位 お相撲の体型
三位 歌舞伎の化粧

如何でしょうか。
歌舞伎はやれるところまでやっちまえ、といった様子が伺えますし、お相撲さんは相手を土俵の外に出すだけの為にあの体型に成る訳です。それ専用の、それだけの為の体型です。極端でありましょう。そして堂々の一位を獲得した縄文土器。ご存知の通り非常な、原始的な力を感じさせるデザインですが、他国と比較しても可なりユニークな発達の仕方をしているとの事。
通常、土器は農耕牧畜の時代に発達する物なのに(食べ物の調理や保存)、 縄文土器は縄文時代=狩猟採集の時代に作られている、あまり実用的とは言えない形からも、あれは生活の為の道具というよりも美術品なのだ、という話を聞いた覚えがあります。原始時代の美術品!

さてそれでは、ペットボトルとしての日本文化に、原色としての日本文化を注ぐとどうなるのか。
僕は岡本太郎氏の作品を連想します。
氏は「伝統を新しく作る」という事を言っていたように記憶していますが、それは自然であるように思えます。これまでの伝統文化が既に、ある意味合いにおいて異文化となっている訳ですから。

近頃こんなつじつま合わせが止められません。(中野)