2012年9月27日木曜日

ザッツ文!



今年も旅行に行けぬままに夏が過ぎ去ってしまった為「果たされなかった旅情の復讐」と云うテーマにてつらつらと書いて行く次第。

先日実家に熊本ラーメンが送られてきた。ラーメンなのに袋ではなく箱に入った一寸立派なパッケイジ。手に取りふと見やるに、裏面に店舗案内の簡単な地図が印刷されているのを発見。周辺の駅、公共の建物、主な道路、そしてお店の場所なんかが記号的に小さく記されている。

地図と云うものは時にどうしようもなく旅情をかきたてるものです。「西銀座通り」なんて命名された道路、その周辺のうらぶれ具合なんかに思いを至らすと、もういけません。実際にその場所に行って、周辺を練り歩いてみたくなってしまいます。知らない名前の駅、知らない名前の鉄道、地元の小学校、スーパーマーケット、取り分け観光地ではないその街で、あなたが旅行者である事は周囲から一目瞭然です(何だか少し、自分がその街のゲストになった気が)。開放感と、いくらかの不安感が入り混じる。そんな何やかやが、旅行の醍醐味と感じます(どちらかと云うと1人旅の醍醐味でしょうか)。

僕事かつて暇な頃には、今回の熊本ラーメン程度のきっかけさえあれば、実際に―最低限の荷物をまとめ、18切符を購入し―1人でふらりと1週間ばかり旅行に出かけていたものです(またいつか、そんな旅行に行けるのかしらん)。

さてさて、鈍行列車にて、大したアテの無い一人旅をするに際し必需品となるのが、一冊の本と、それからまだ聴き込んでいない―1曲目から最後まで通して聴ける様な―優れたCDのアルバム盤です。
道中そのCDを聴き続けていると、後日聴き返した際に、旅行中に味わった開放感、その時の新鮮な空気を、音楽を通しありありとその場に感じる事ができます。不思議な事に何度も聴き込んだCDだとこう云う事は起こりません。この感覚は、手付かずのまっさらなCDにのみ沁み込ませる事が出来ます。


山のただ中を走る、三両編成の電車内。

地元の高校生。
荷物を持った外国人観光客(こんなところまで、何を見に来たのだろうか)。
辺りの風景に善く馴染んでいる様に見える老人。
アルミのサッシに彫ってある古い落書き(平成×年 誰かの名前)。

自然がヴォリューム感を増していく程に逆説的に得られる静けさ―無人の駅に電車が止まり、ドアが開くと、一斉に蝉時雨が降りしきる。

あなたは本を読む。
読み疲れたら音楽を聴く。
アルバムが一周したら、景色を楽しむ。
電車が終着駅に着くまで―或いは、ふと思い立ってどこかで途中下車をするまで、そんな事を繰り返す。

至福。


しかしここ何年か、僕事この『旅行中聴いていた音楽で、当時の感覚甦り現象』が起こらなくなっております。「さては感性が磨耗し、旅行中の新鮮な感覚を感じ難くなってしまったのだろうか」等と考えましたが、恐らくは“慣れ”の為かと思えます。つまりは18切符で移動し易い場所―本州―程度の距離感に身体が慣れてしまい、「またか」と云った体となり、その為開放感や不安感をあまり感じていないのかと。

と云う次第にて、“慣れ”と云う人間が持つ文明の発達に欠かせない感覚の為、僕事更なる遠くへと行くのでしょう。先ずは九州、四国、北海道へ!(中野)

録音日記(3)



かつて某有名ボクシングジムの会長が練習中「カッコつけてやんなさい」と云っておられましたが、これは代々木体育館を設計された丹下健三氏の「機能的なものが美しいのではない。美しいもののみ機能的なのだ」と云う名言と、同じ事を指しているものと思われます(異なるジャンルとされているものから、同じ内容の格言が飛び出す事は少なくありません。やはり到達する極みと云うのは、共通するものなのでしょうか)。

例えばプロフェッショナルな楽人は、見た目にも非常に美しく演奏するものですが、実はそれこそが巧みに演奏する条件なのですね。

また、名ヴァイオリニストの演奏を映像で見た途端に、(その動きをイメージする事で)自らの演奏まで上手くなっている―と云う事もあります。

(服装とかではなく)“形から入る”事は何て有効なのか―と近頃つくづく感じます。

―と云う次第にて、ヴァイオリンの出番が多くなりそうな次回の録音に向け、姿見を見つつ練習(と云うよりもリハビリ“と云う言葉がしっくりときます)中です。

前作では、ヴァイオリン演奏の拙さに曲の性格まで変えざるを得なかった、と云うよろしくない事態が起きた為、今回こそは何とか立派に弾くべく準備を進めております。
(中野)

2012年9月16日日曜日

岡本太郎美術館へ



平日の昼日中より@nozushiさんと共に行く“大人”をテーマとした散歩、今回は川崎市にある「岡本太郎美術館」へと行って来ました。

残暑厳しい中、向ヶ丘遊園の駅前で待ち合わせ(ノヅ氏が、先日氏の誕生日に贈呈した筆入れのお返しにと、鳥取の鬼太郎キャラメルをくれる)。美術館へは徒歩で向かう。
歩く事10数分、いつしか小高い山へと足を踏み入れ、気温も心なしか低くなる一方、街とは少し違う空気に、我々を待ち受けるものへの期待が否応無しに高まる。

―と云った体にて館内へ。

岡本太郎さんの作品において最も特徴的なのは、縄文土器以来日本の美術品に見られなくなった「呪術性」「原始性」と云ったものが表されている点だと云えましょう。
あの生命の躍動感は―同じ日本的な絵画*でも―浮世絵のシレーっとした感じとは真逆のものです。ディフォルメ化と云う両者の共通項から見れば、あたかも同じ器に別のものを注ぎ込んだかの様。

そして浮世絵と比較した際の、もう一つ大きな違いは“岡本作品は芸術作品”と云う点です。

「芸術作品には1人の人間が生きた事を感じさせる何かが無ければいけない」と云ったのは詩人の中原中也ですが(確か)、そもそも浮世絵に止まらず江戸時代までの日本美術作品を見れば、芸術作品―1人の人間が自らの何かを表現すべくして作ったもの―と云う感じがあまりしません。そこにはしばしば素晴らしい美があり、非常な表現力がありますが、やはり作者の視点と云うものを感じさせないだけの“引き”が感じられます(凄い芸です)。そしてそこには見る者が入り込めるだけの余白が生じます。これらの作品を見ると、現代で云うところの「芸術」とか「アート」と云う感覚で作られてはいないと感じられます。

一方の岡本作品には(多くにおいて)、“引き”と云ったものは無く、作品の中で岡本太郎さんと云う人間が盛大にはじけています。それは無論物凄い事ですが、そんな作品を見ていると時に疲れます(ただ、氏は人間が共通して持っている根源的な部分まで自らを掘り下げた上で、作品として昇華している為、見る者はそこに、自分も含む人間の普遍的な部分を見出す事ができます)。流石「芸術は爆発」と云い放った御仁です。

これはどちらが優れている、いないではなく、ただスタイルの違いと云えますが、表現力を爆発させる事で失われるものもあるのですね。

個人的には、偶に館内の片隅に展示されている造形作品―薄暗い中、何かの顔や生き物がひっそりと佇んでいる―のを一寸覗き見るのが非常に面白く感じられました。分かり易い表現力を持ったものが、少し引いた所にある事で何かバランスが取れている為でしょうか。

後、面白かったのが子どもの落書きを造形にしたかのごとくディフォルメ化された犬。こんな生き物は居ないにも拘らず、今にも喋り出しそうな(吠えるよりも喋りそうな犬です)、非常に生き生きとした感じがしたのを忘れられません。

何か感想が子どもっぽくなってきたところで(“大人”がテーマなのにな)また次回!
(中野)


*フランス留学で吸収したものもはっきり表れる岡本太郎さんの絵画を「日本的」と云い切ってしまうのは語弊があるのかも知れませんが、何しろ縄文的です。

2012年9月6日木曜日

春九作さんについて



今年の初夏、次作CDジャケットのデザインが決まらず(また技術的な問題もあり)頭を悩ませていた或る日の事「すごい絵を描く人がいます」とサイキミホサン。携帯端末から見せてくれたのが春九作さんの作品でした。

春女史の作品を見て僕事常に感じるのは“日本的な素晴らしさ”です。

縄文土器の頃から日本人の得意技の一つとして「引き算の表現」と云うものがあります(つまりはディフォルメ化)。
一方ヨーロッパの古い絵画を見れば写真機で写し取った様な写実的な絵が主流ですが、これは「足し算の表現」と云えましょう。

なるべくシンプルに、余分なものを削ぎ落としていく事―つまりは誰が見ても分かる様に簡略化していく事は、精緻に肉付けしていく事と同様、非常な表現力を獲得する為の手段です。

あたかもCDのデジタル信号を読み取り、再生機が美しい音楽を奏でる様に、ディフォルメ化された表現は或る種、記号として脳内に取り込まれ、そこに言葉で表現出来ない色々を描かせるのでしょう。

僕の感じる日本的な素晴らしさと云うものも、一つその点にあります。

しかしまあ、百聞は一見にしかず―と云う事で御覧ください!



「引き算の表現」を用いた絵と云えば、浮世絵が代表格ですが、春女史の作品にもそこに通ずるものが見受けられます。しかし突出しているのが、他に類を見ない程の無国籍性でしょう。
かつて大陸からの文化を吸収しつつ「和」と云うものを形成した日本文化の土壌が、現在では欧米文化を吸収していますが、春女史の作品を拝見するに、その日本文化の土壌となる部分に、徹底的に磨きが掛けられているものと感じます。土壌となる部分を追求していく程―逆説的に―無国籍性を得ていく。そんな日本文化の非常な面白さを表した作品です。

春九作さんの作品に出会えた事、そして絵まで描いて頂ける(何とサイキミホサン、インターネットで偶然にも発見した春女史の作品から御本人にコンタクトを図り、ジャケット制作の依頼をしてくれていた。そして引き受けて頂けるとは!)事は、ユーディットにとって―そして僕個人としても―非常に幸運な事と感じます。

と云う次第にて次回のユーディット、ジャケットに御注目ください!
(ええ、中身もねちゃんと作りますからね
(中野)

2012年9月4日火曜日

録音日記(2)

表題曲「アカデミック」。
録音に際し加える「ライヴには無いもう1パート」を探るに、その後“どうやらヴァイオリンらしいね”と云う事が判明。取り敢えず曲の全貌がつかめ一安心。
(小室氏のチェロ、今年二度目のお目見えは先送りとなりました)

その他試したもの

エレクトリックギター
コントラバス
チェロ

以上

コントラバスとチェロはシンセサイザーの音だった為ホントのところは分かりませんが。
(て云うか、コントラバスなんてどこにあんのよ、あんた)

―と云ったところで、昨夜は地元のスタジオにヴォーカルスタイルを探るべく―マルチトラックレコーダ(MTR)を鞄に詰め―歌いに。
この曲歌い方には他にもアイデアがあったものの、結局ライヴと同じスタイルで歌うのが最適と、即座に判明。
 まあ、アイデアがあろうとできる事は1つだったと云う事ですね。いかがでしょうか!引き出しの少なさを逆利用したスピード手法。

しかし、録音したものを聴いて初めて気付いたのですが、この曲、歌詞の一部が一寸全体の足を引っ張っている(この辺り距離を置いて聴けるのもMTRの効用の1つ)。

冒頭に「インスタントみたいな奉仕」と歌っているのを、サイキミホサンに“あの「インスタントみたいな星」っていうところ、いいわよ”と褒められたのをヒントに書き直して 、取り敢えず仕上がる。

バンドとして活動をしていて感じるのは、複数人が関わる事で生じる別視点―しばしば、誤解や間違い―と云ったものが、1人では思いつかなかったであろう面白いものを生み出すと云う事です。

ただ、初めから何人かでもの作りをしていってもこう云う偶然は起こらなくて、誰かが1人磨きに磨いたものに、別の誰かの、新たな視点が入り込む事でそこから飛躍する―事がある様に思えます。

(因みに前作「プラスチックハント」にて曲を通し鳴っている“シャア シュ” と云うシンバルの音〈これで分かった方、僕と握手!〉。これも僕が書いたフレーズが小室氏に上手く伝わらぬまま、氏が鳴らしたものがそのまま満場一致の採用を受けたものです)

―と云う事で、僕事以前より、1人でぜんぶ曲を書く音楽家は凄いなあ、1人でよくできるよなあ―等と思っていたところ、中村一義さんが“もう1人の自分と一緒に曲を書く”と云う様な事を仰られているのを耳にし、納得したものです。

ものを作る上で「別視点」と云うものは往々にして有効ですね。

 
 ―と云う次第にて、表題曲が一応のカタチとなり少し気持ちに余裕の出てきたユーディット。

さて、次なる課題やいかに...!(中野)