2013年9月10日火曜日

言葉にする際に

 先日、銀行の待ち時間の間ふと手に取った雑誌に、どこか外国の巨大な仏像の写真が載っておりました。どうやら東南アジア、かつての仏教寺院の一角で、遺跡の様な場所に非常な存在感で仏像か座っている訳です。それを見て兎に角思ったのが“旅行の途中でこんな光景と遭遇したら、それはそれはたまげるだろうなあ”と云う事です。こんな凄いものを作ったかつての誰かの事に想像力を巡らせ、それが眼前の光景と合わさり、何とも名状し難い感覚に落ち入る訳です。
 ただ、雑誌なので当然の如くそこに説明書きが添えられているのですが「1×世紀 タイ初めての独立王朝の遺跡―」等と書いてあるのを読んだ途端、それまで感じていた何とも云えない圧倒的な存在感はしぼんでしまい、眼前の写真が、まあよくある観光案内に変化する―と云う感覚がありました。

 言葉と云うものは異なる人間が同一のイメエジを作り出す上で有効なものですが、一方で事物を言葉と云う記号に変換する際にそこから失われるものがあります。
 例えば子どもの頃目にする風景にはしばしば、どこか不思議な感覚が伴います。まあ、初めて見る物が多い為世界がそもそも新鮮なのですが、言葉をあまり知らない事もその理由に挙げられましょう。例えば父の書斎(なんて無かったけど)、本棚に並ぶ分厚い本。中には、兎に角細かい字で何やらギッチリと書いてあり、そこには何か計り知れないものが詰まっている訳です。「よくわかんない、なんかすごい」と云った具合ですね。その他にも、家族と外出をした際何かの折に1人で車に残される―なんて云う場面、日頃両親が何気なく操作している各レバー類なんかを改めて観察するに、そこには自分の手には余る何かすごい秘密の仕掛けが隠されている訳です(僕事サイドブレーキを下げる際に親指で押すスイッチを、ミサイルの発射スイッチに見立てていたものです)。そして何も難しい本や機械に限らず、おばあちゃんの家の縁側でも、その床の木目、目を転ずれば木々がしげる広い庭、今ではあまり使われていない離れ、ふと背後を見やると屋外の明度に慣れた目に、人気のない畳の部屋が一際暗く見え―と云う風に、目に映る色々が少しずつ不思議な気持ちにさせます。
 こういった感覚は生きている内に段段と感じ難くなるものです。言葉を覚え知識を蓄え、分厚い本の中身は××とカテゴライズされる専門書であるとか、車の座席と座席の間に付いているレバーは何かの折に動かない為のストッパーを操作する物だとか分かっちゃう訳ですね。
 但し、分かると云っても“お店の看板は知っているけど中に入って実際に食事をした事はない”と云う状態です。そしてそんな状態が一際著しくなるのが「時間」と関わる際でありましょう。例えば長く年月を経たものは、それだけで何か特別な雰囲気を帯びてくるものですが、それについて“何年前に作られ、その頃の社会情勢はこんなでした”と云う様な説明がなされてしまうと、しばしば特別な雰囲気は払われてしまう事となります。歴史の枠組みにはめ込んで古いものを捉える事は、歴史を理解する上で有効ですが、ものそれ自体を理解する為には必ずしも有効ではない様です。間に一拍おいて時間と云う概念を理解しても、時間そのものにダイヴし体感はしていない―と云いましょうか。
 
 まあ一方で、こうした古いものがまとう特別な雰囲気を払う行為をしないと、ものに対しあまりに色々な執着がまとわり付いてしまうので、それはそれで恐いですけど。
(中野)

2013年8月28日水曜日

ギロチンは恐い

 先日はフランス革命の際にルイ16世の首をはねた死刑執行人シャルル・アンリ・サンソンさんについて書かれた本を読みました。
 本の中では、革命の終盤、果てしなく続くギロチン刑にもはや疲弊しきったシャルルさん、そしてこれから刑を執行される人間までもが、或る種の無感覚を持って死を眺めている光景が描かれています。

 ギロチン導入以前の死刑において、刑を課す者は1人の人間の命をすみやかに終わらせる為、その技術を磨き、圧倒的な気力をもってそれを行使する―と云う様に、刑を課せられる者の尊厳は度外視されず、執行者と被執行者の間に、人間と人間とのコミュニケーションが存在していました(但し罪の内容によっては、身体を切り裂いたところに溶けた金属を流し込んだり、4頭の牛に勢いよく四肢を引っ張らせてバラバラにしてしまう―と云った残酷なものもあった様です。恐いですね)。

 しかし革命の途中から、刑の執行にギロチンが用いられる様になると事態は一変します。
 ギロチンは本来、残酷な処刑のやり方に反対した人達が、痛みの無いすみやかな刑の執行を実現すべく開発した物で、それに際しては、優れた技術者でもあったルイ16世の意見も取り入れられています(刃が斜めなのはルイ16世のアイデアとか)。
 しかし、この機械はあまりにも簡単に人の命を終わらせる事ができた訳です。人の命を強制的に終わらせる際、そこに伴う筈の消耗と云うものを、執行者にも観衆にも、そして恐らくは被執行者にももたらさなかったのではないでしょうか。

 現在我々はPCを中心とする便利アイテムを駆使し、かつては相当な時間と労力を費やしていた作業をいとも簡単に済ませてしまいますが、それに伴う気力の消耗もスキップしている訳ですね。気力の代わりに何を消耗させているのかいないのか分かりませんが、効率化ばかりを図っていく結果、感覚はそこに追いつかなくなります。そしてそこから何かのバランスがくずれ、やがて心を病んでしまう。何かこの現象、シャルルさんが経験した無感覚と通じるものがあるのではないかと感じます(比較する事が正しいのか、と云う問題はここでは論じません)。
 現在の、この様な効率化は「経済圏の加速」等と呼ばれ、僕事は産業革命以降続いている流れと理解していたのですが、それ以前に起こっていた様子を今回知りました。
 ギロチンと云う機械、産業革命を待たずとも開発され得たシンプルな仕組みではありますが、それはあまりに重い仕事を代用してしまうものだった為、執行に伴う筈だった多大な消耗を執行者から、或いは観衆から奪い、その心を病ませるに充分足るものだったと云う事でしょうか。

 ちなみにシャルル・アンリ・サンソンさんは、教養があり、ハンサムで、医療によって多くの人達を助け、死刑囚に対して常に公正な態度で接した人だったそうです。(中野)

2013年8月15日木曜日

カタログ的読み物って善いですね

 カタログ的な本やテレビ番組が好きです。
 
「カタログ的」の条件としましては、或るジャンルについて広く浅く紹介してある事と、押し付けがましくない事が挙げられます(つまり“これを聴きなさい”“あれを見なさい”“これが正しい鑑賞法ですよ”と云った内容の、手引き本の類とは異なります)。取り上げられている事物に紹介者の偏愛が感じられると尚善いです。何も立派と云われる作品ばかりが人の心を捉える訳では別にないですからね。

 僕事20歳頃からクラシック音楽を好んで聴く様になりましたが、そのきっかけの1つが「世界の音楽」()と云うタイトルの本でした。たまたま家の本棚にあったのを、偶然手に取ってみた訳です。
 こちらの本、カヴァーしているのはクラシックから現代音楽までで、それぞれの作曲家とその作品について年代順に数ページずつ綴ってあります。なので適当にページを繰って、気に入ったところだけ読む―と云ったスタイルに合っています(トイレでの読書に最適ですね)
 また、著者である野呂信二さんの、音楽家やその作品に対する愛情が伝わってきて、少なからず感化された様に思います。なんと申しましょうか、一生懸命書かれた文章です。

 広い年代や地域に渡り、音楽家や曲にまつわるエピソードがかいつまんで書いてあり、その一方でここには書ききれない色々があると云う事も、どこか想像させてくれる一冊です。そしてそれも、僕がカタログ的な読み物に求める要素の1つです。つまりは余白と余韻があると申しましょうか。

 テレビ番組で云うと「美の巨人たち」が善いです。
 こちらは毎週30分ずつ、1人の作家の1作品を取り上げるので[カタログ]としては可なり深いところまで掘り下げられています。
 この番組は兎に角構成が楽しく、作られた年代やその社会背景等の現実的な作品紹介をする一方、そこに作品をテーマとした短い物語を織り交ぜて、双方をリンクさせていく訳です。物語と云っても可なりくだけた内容で、芸術作品とリラックスして向き合える工夫がなされています。
 
 入口を沢山作っておいて、そこに読み手が入って来るのを待つ―と云った姿勢は、何とも好ましいものです。(中野)

2013年7月12日金曜日

ザッツ文

 まとまった量の曲が書けており、それをカタチにして磨きをかける作業が続いております。
 内、数曲は次回ライヴにてお目見えとなりましょう!

 (8月25日 下北沢mona recordsにて!)

 しばしお待ち下さいませ。

 長らく更新をしていない言い訳とも、ライヴの宣伝ともつかぬ文章ではありますが。(中野)

2013年5月23日木曜日

御礼

 「RO69JACK 2013」御投票下さった皆々様、並びにコメントをお寄せ下さった皆々様、どうも有難う存じます。

 頂いた票数については僕も知り得ないところなのですが、その言葉はもちろんの事―同世代の方、先輩方や若い方―世代を広くリアクションを頂けた点も、とても嬉しく感じます。(中野)

 http://jack.ro69.jp/contest/jack2013/artist/24181

2013年5月11日土曜日

RO69 JACK 2013 の為の文章

 この文章は、今月14日まで行われる『RO69 JACK 2013』と云うイベントにおける2次選考の為に書いたものです(1次選考は通過しました)。
(以下)

兎に角、日本語でいかにロック音楽を歌おうかと云う事に腐心しました。ともすれば「熱く」なりがちなので、その点をいかに「平熱」でいられるか。但し、ギターは歪ませ、声は嗄らして―それをやるのです。

 欧米のロックミュージックを入り口にコピーを始め、求めるものはそこにあったものの、
さて自作自演をやろうという段になり日本語と英語それぞれの言語がもつキャラクターの違いに上手くゆかず。かと云って英詩を歌うにも、それならあちらの方々に任せておけば良いのじゃあないかしらん―等と思い。まあなるべくメロディを日本詩で埋めてみよう、と云った体のまま活動開始となりました(当初ピッチを上げて歌う箇所については歌詞がないままに発声しておりました)。

 「平熱」でいるには距離感がものを云います。歌詞を御覧頂いても分かる様に、
まああまり日常で使わない言葉を用います。つまりは自分自身から距離を置く行為です。
人称が出て来る事も殆どありません。「自己表現」と云うものとは随分と異なる気がします。
「たかがロックじゃないか」とか「もう日本も欧米もないよ」とも云われますが、「熱い」感じで歌う事と、英詩を書く事がどうにもはばかれた結果の事で、そう云った考えにも反対はしません。それと同時に「もっと分かり易く歌え」と云った有益な助言もスルーし続けております。


 こちら投票形式の審査なので、皆様宜しければ一票投じてみて下さいませ。
http://jack.ro69.jp/contest/jack2013/artist/24181
(中野)

2013年4月24日水曜日

インプットとアウトプットについて

 こんにちは、ユーディットの中野です。皆様いかがお過ごしでしょうか。
このところ、シングル「アカデミック」のパッケイジ作業にかかりきりだった反動か、新曲が数曲まとめて書き上がりました。曲を作っていると、不思議とあまり文章を書こう―と云う気分にならないのですが、今日は久しぶりに心ゆくままにキーボードをタイプしたく思います。

 夜歩きに最適な気候なので、先程セブンイレブンまで納豆を買いに歩きました(往復で1.5キロくらいでしょうか)。春になると、冬の寒さでそれと感知できなかった色々の匂いがしますが、季節の変わり目と云うのはその季節の匂いがより感じられる時期でもあります。そんな季節の匂いは往々にして過去の記憶とリンクをし、我々をちょっと名状し難い気持ちにさせたりするものですが、近頃あまりこうした或る種“なつかしさ”に浸り過ぎている暇はないな―と感じる様になってきました。
 学生の時分にはそこに非常な興味を持ち、なつかしいもの、ゆっくりと過ぎる時間、旅情―と云ったものに進んでダイヴしていったものですが(今思うに半分隠居生活です)、近頃それらを感じられる事の重要性は分かるものの、その一方で「そればかりはしていられないぞ」とも思う訳です。

 何が変化したかと考えるに、恐らくは“インプットメイン”から“アウトプットメイン”へと状態がシフトしたのではないでしょうか。つまり、今は何かを取り込むよりも、これまでに取り込んだものを何かカタチにして誰かに伝達できる状態にする―と云うテーマにて身体が動いている気がします。
 これは時期的なものなのか、インプットの容量によるものなのか、今後また“インプットメイン”の状態が来るのか来ないのか分かりませんが、取りあえず僕の場合は、学生の頃に半隠居生活に没頭しておいて善かったなと感じます(つまりは、やるべき時にやるべき事ができた―と申しましょうか)。そして“アウトプットメイン”の状態にしろ、インプットに磨きをかける行為―例えば善い夜に散歩をしたりする事―は継続していくべきと感じます。

 さて、シングル「アカデミック」ですが、現在ディスクユニオンと、以前『雑文』に書いた大宮のmore records にて取り扱って頂いております!ユニオンとモアレコへゴー!
 http://diskunion.net/portal/ct/list/0/72331258
 (中野)

2013年2月17日日曜日

言語のキャラクター



先日「ショーシャンクの空に」の映画を観ました。
終盤にモーガン・フリーマンさん扮するレッドという囚人が、長い刑期の果てに仮釈放の審査を受ける場面があるのですが「殺人を犯した事を後悔しているか?」との問いに、モーガン氏は非常に長い、あたかも演説の様な回答を返す訳です。
僕事しばしば思うのですが、英語と云う言語は何と云うか“情報を詰め込む”のに適しています。
ポケットが沢山付いた上着の様なもので、ここに財布、ここに鍵、ここに携帯電話―と上手に収納してスマートに着こなせてしまう。
日本語をこれに例えるなら、大きなポケットが2つ付いただけのシンプルな上着です。このポケットに何でもかでも詰め込んでしまうと、どうも落ち着きが悪い。
―と云った具合にて、英語で話された格好善い台詞を日本語に訳して云おうとしても、大抵ずっこける―と云うかある種不自然さが生じます。

もし「ショーシャンクの空に」を日本で作り直し、レッドの長台詞をそのまま和訳したとしたら、いくらお芝居でもこれはちょっと成り立たない気がします。

では、何故英語は“情報を詰め込み”易いのか―と考えるに、恐らくは“足し算”の言語だからと云えるのではないでしょうか。
つまりは
2+3=5
にて、それ以上にはならない。

一方の日本語は“掛け算”の要素があり
2×3=6
となってしまい、

英語なら
2+3+1+4=10
と、四つの数字(つまりは言葉)を使っても10にしかならないところ

日本語は
2×3×1×4=24
と四つの数字を使うと24になって、何と云うか重量オーバーとなってしまう

まあ、あくまで例え話ですが。

そう云えば、英訳された日本の漫画を読むに、多くの台詞で訳された後の方が単語の数が増えている様です。

また日本語は1つの言葉に色々な要素が附随し易い言語でもあります。
「言葉による理解は二次的な理解のしかたで、日本人はそんなまだるっこしい手続きを嫌う」と何かで読んだ記憶がありますが、成る程例えば文章にしても、その場面の情景、或いは登場人物の仕草なんかについて描写する事で、その人物の内面までも読者に想像させる―と云った例を目にします。

先の漫画の話に戻るに「功殻機動隊」でバトーが矢野と云う部下の死体と対面する場面にて原作では一言「矢野」と云っているのに対し、英訳では「Poor Yano…」となっている訳です。つまりは、矢野の死体と対面する―と云う状況において、日本語でただ一言「矢野」と云えば伝わる事も、英語では「Poor Yano…」と、もう1つ単語が必要―と云う例ですね。もしこの翻訳を逆輸入して「かわいそうな矢野」等と訳してしまうとバトーのキャラクターが壊れます。

さて、言葉少なに色々の事を表現するのに適している日本語ですが、その一方、言葉を発する人間の思惑に関わらず、どうとでも捉えられてしまう、と云う場合も少なくないと云えます。また、場合によってはある種“みっともなさ”に繋がってしまうケースもあります。

例えばマクドナルドで注文を取る際「テリヤキマックセット」とあたかも小学生がそのまま歳をとったかのごとき様子にて話す人がいると「『テリヤキマックセット』だけじゃわからないわよ。『テリヤキマックセットを下さい』ってちゃんと云いなさいな」と思ってしまいますね。

そんな状況を避ける為にも、言葉に何かを付随させる能力には磨きをかけたいものです。

例えば「テリヤキマックセット」とだけ云っても、「テリヤキマックセットを下さい」と云った場合と同じだけの表現力を発揮している人もいたりする訳です。こう云う人は恐らく、声色、表情、間、と云ったものをコントロールする能力に長けていて(或いは人間性がそう云ったものにまで滲み出るのか)、1つの単語だけで必要な事を相手に伝えられてしまいます。

しかしまあ、そこまでいくのは中々難しいので、現在のところ僕はおとなしく「テリヤキマックセットを下さい」と云っております。(中野)

2013年2月2日土曜日

録音日記とお徳情報



29日(土)高円寺Club Mission’sにて「オルガズム」と云う企画が催されるのですが、ユーディットもそこに出演する運びとなっております。
そして何と御来場頂いた皆様に漏れなく、新譜「アカデミック」を無料にて贈呈致す次第でございます!

かねてより高品質にてプレスをしたCDを無料でお渡し―と云うのをやってみたく思っておりましたところ、今回終に決行となりそうです。
録音が遅れる中、残す作業(ミックス、マスタリング、そして帯に記載するコメント)をデタラメな日程にて進めて下さったエンジニア氏とゴーストライター氏、ごめんなさい。

プレスが完了したCDは恐らくライヴの前日手元に届くかと云うところ(何と云うぎりぎりの日程)。関係者の皆々様には迷惑のかけ倒しでした。

当日は会場の物販スペースにてお声がけ頂ければCDをお渡し致します。皆々様の御来場を心よりお待ち申し上げます。

前売チケットをお求めの方はホームページのメールフォームより「お名前」「人数」を記載の上 御連絡下さいませ。
チケットは当日会場にてお取り置き―と云ったカタチにて対応させて頂きます。
 (中野)

2013年1月13日日曜日

続・録音日記は続くよ


(前回までのあらすじ)
ミックスを終えた時点で、やっと録音そのものに問題があると気付いた僕の事。再度スタジオを予約。しかし録音日を目前にして、何と高熱に倒れる始末。結局当日になっても床の人(馬鹿か)。

さて、年明けからヴィックスのはっか漬けとなりベッドでうんうん唸る事数日。快復するだろうと見通しをつけていた期間が無情にも過ぎ去り、38度の熱をもったまま録音スタジオへ。@psypomさんが車で迎えに来てくれる(車内には、毛布や熱いお茶、アクエリアスとフルーツゼリーまで用意されている)。高速道路は随分空いていて予定よりも大分早く到着。途中薬局で「ゼナ」を購入し服用するに身体が随分とまともになる。

その様にして録音作業は滞りなく進み、ギターとヴァイオリンを録り終え、歌も歌ってみる(この時ばかりはマスクをはずす。周りの方々としては同じ密閉空間に風邪ひきがいるだけでも怖かろうが)。
→「取り敢えず思惑通りに歌えたかな」と云うところで切り上げ。
→しかし帰宅して録音した音源を聴いてみるに、やはり歌うには無理があったと判明。それ以外のパートはオーケー(結局この日はエレクトリックギターとヴァイオリンの録音に成功)。

その後数日間、アルバイトをしながら少しずつ体力を回復させ(これが中々戻らない)、ある程度善くなったところで一度、近所の練習用スタジオに行き歌ってみる。「これなら大丈夫」と云う手応えを感じたところで、エンジニア氏に電話をかける→折り善く電話の翌日に録音の予約ができる。

と云った次第にて、結局年始の録音日から一週間の後、やっとで表題曲「アカデミック」が表題曲足る出来に(長かった)。

プレスの為のデータ入稿まで、まだ少し作業があります。2月9日に予定しているライヴには間に合わせたいところ。急がないと(中野)。

2013年1月12日土曜日

録音日記は続くよ




録音を終えると、今度は録った音の音色や音量のバランスを調整する「ミックス」と云う作業へと移行する訳です。
ミックス作業はエンジニアの方に進めて頂くのですが、ミキシングスタジオ備え付けの巨大スピーカーで聴くと、音の良さと音量の大きさに多少の問題には気付かず素通りしてしまう恐れがある為、僕事ミックスの現場には殆ど立ち会わない事としております。
その代わりに音源のデータをパソコンに送って頂き、普段自分が使っている一般家庭向けオーディオ機器にて再生された音を聴き、再調整希望の箇所があらばメールにて提出。大体固まったかしらん、と云った頃現場に登場して、細かい調整をその場でして頂き完了―と云う手順を踏みます。

その様にしてエンジニア氏との間でデータとメールをやりとりする事数回。何度となく音源を聴き込み、変えるべき部分とそうではない部分を見極め、それをなるべくシンプルな言葉にてお伝えする―と云う作業を続けます。
かくして最初のデータを送って頂いてから2週間程の後、「これなら」と云う仕上がりに。さて改めて音源を聴いてみるに―

肝心の表題曲が何かこうぐっと来ない。

ミックスが仕上がっているとなるとこれは、録音した時点、或いは曲そのものに何か問題があったと云う事が云えましょう。遡って作業のやり直しが必要となります。何しろ自らにぐっとこないものを誰かに聴いて頂くなんて云う事はできないので(作業が予定通り進むものとして御協力頂いた皆々様。申し訳ありません)。

―と云った次第にて。急遽曲を書き直してみる。コード進行を少しストレートなものにしてみる。合わせてリフにも変更をきたす。悪くない。
しかし数日で、書き直した曲には飽きが来てしまう。これではいけない。
→その様にして然るべき時間が経過した後、曲は大筋では最善のカタチであると結論。結局ほぼ元のままとなる(書き直しを繰り返し、最初のアイデアに戻る事が少なからずあります)。
しかし書き直しの際に浮かんだアイデアの内幾つかは採用。

そんな折、音源を聴く内にギター音程のずれが許容範囲を超えている事に気付く。
エレクトリックギターは特に(弾くポジションによっては)結構音がずれてしまうもの。録音時よりある程度の把握はしていたのですが、それが許容範囲外であると気付くまでにミックス作業が仕上がってしまった次第。やれやれ何をやっているのやら。

かくして幾つかの訂正箇所(ギター、それに合わせてしまったヴァイオリンと歌)を録音し直すべく、スタジオを予約。

しかし録音日を目前に、僕事高熱に倒れました。キャー(次回へ続く)
(中野)