2012年5月27日日曜日

コンパクトディスクへの詰め込みについて

CDの再生時間が74分と決まったのは、ソニーがヘルベルト・フォン・カラヤンに相談した結果ですが(確か)、それはあの1時間もあるベートーヴェンの第九交響曲が収録できる様にとの計らいでした(カラヤン指揮だと1時間程ですが、指揮者によって曲の長さが変わる為余裕をもたせての74分)。

「LPと違い、途中で引っ繰り返さずとも仕舞いまで聴けてしまうこの画期的な新商品、あの長大なベートーヴェンの交響曲が収まるだけの容量があれば大丈夫ですね!」

「ソレニ ダイク ワ CDノナガサ ヲ キメルニフサワシイ リッパナ サクヒンデス!」

―等と云う会話がなされたかは分かりかねますが、かくしてCD→74分と云う決まりができた次第です。

ところで、“74分あるとなればそこになるべく多くの曲を収録した方が、商品としてお得感があるな、ヒヒヒ”と云う呟きが聞こえてきそうなCDが(特にクラシック音楽に)多くあります。
例えばシューベルトの『白鳥の歌』(全14曲)の後、更に数曲の歌曲をプラスして“トータル72分45秒”等と表示されているのを目にすると、いかにも詰め込める曲目を探してきた感じが滲み出ています。
その様な詰め込みが、予期せぬ曲との出会いに繋がらぬとも限りませんが、実際には消化不良を引き起こす事の方が余程多い様に思えます。

つまりは、『白鳥の歌』を聴き終え、お腹が一杯になった状態で聴いてしまうあの歌曲と、もっと別の出会い方をしていれば、今とは違った聴こえ方がしていたかも知れないね―と云う話です。

ただ、例外的にベートーヴェンの『運命』・『田園』のカップリングは、それぞれが独立した大作であるにも関わらず、詰め込み感が全く無いように感じます。
ベートーヴェンはヘヴィでシリアスな運命交響曲を書く行為とバランスを取るかの如く、ハッピーな田園交響曲の執筆を平行して進めていったそうですが、それを聞いて成る程と思います。そもそも2曲間のバランスが善いのですね。

話を戻し―そう云えば画集を見る際も、パラパラと頁を繰って見ていくより出鱈目に開いた1頁をゆっくり眺める方が、絵が面白く感じられます。(中野)

2012年5月20日日曜日

御知らせ

ツイッターを始めました→ @youdit123

匆々

縄文土器を見た感想


先日、さいたま市大宮区にある市立博物館(程好くうらぶれている)にて縄文土器の展示を見て来ました。
縄文土器は早期・前期・中期・後期・晩期―と云う具合にて年代ごとに分けられているとの事。それを順に見ていくと、あたかも一人の芸術家が一生の内に見せる作風の変化を目にする様でした(実際にはそこに、1万年以上の時間経過がある訳ですが)。

早期→土器としての体を形作るだけで“もう充分に用を成しています”と云った印象(大
   発明だったのだと思う)。
前期→土器の形や模様に凝り始める(このあたりから、先に挙げた芸術家の例を引き合い
   に出せそうです)。云うなれば自らのスタイルを確立しつつある時期。
中期→形や模様に凝っていたのがエスカレートしていき、仕舞いに爆発している時期。芸
   術作品としてはこの頃のものが最も分かり易く、一般に「初心者向け」とか「入門
   編」とか呼ばれそうなものが多いと思われる。ベートーヴェンで云うところの「名
   作の森」か。
後期→中期のダイナミズムを内包し乍、装飾的な部分を削ぎ落とし洗練されている。作品
   群の勢いは中期の方が盛んだが、最高傑作と呼ばれるものが恐らくこの時期に作ら
   れる。
晩期→この頃の作品は芸術家の発展ラインから逸れ、実用的な「食器」と成ってきてい
   る。急須の形も既に存在。

-と云った様子。
細部を見やると混沌と渦巻く一方で、全体を眺めればそこに秩序を見出せる―と云うデザインが縄文土器を作る上での基本となっていて、それは同時にあの非常な呪術性の、一つの所以と云えます。
大収穫の上に入場無料、当日大満足で会場を後にしました。(中野)

2012年5月12日土曜日

謝罪文

前回に御知らせ致しましたラジオ放送の件、今週は実現されませんでした。
ご迷惑をおかけした皆様へ深く謝罪申し上げます。
ご免なさい。
今後の予定が判明し次第に、また追って御知らせ致します。

何卒御容赦の程懇願申上げます。

匆々(中野)

2012年5月5日土曜日

お目見え情報

むさしのFM5月12日(土)19時~の番組中@nozushiさんのコメントにて、ユーディットを紹介して頂けるお話が浮上しております。

土曜の夜はダイヤルを78.2に
むさしのFMで僕と握手!(中野)