先日はフランス革命の際にルイ16世の首をはねた死刑執行人シャルル・アンリ・サンソンさんについて書かれた本を読みました。
本の中では、革命の終盤、果てしなく続くギロチン刑にもはや疲弊しきったシャルルさん、そしてこれから刑を執行される人間までもが、或る種の無感覚を持って死を眺めている光景が描かれています。
ギロチン導入以前の死刑において、刑を課す者は1人の人間の命をすみやかに終わらせる為、その技術を磨き、圧倒的な気力をもってそれを行使する―と云う様に、刑を課せられる者の尊厳は度外視されず、執行者と被執行者の間に、人間と人間とのコミュニケーションが存在していました(但し罪の内容によっては、身体を切り裂いたところに溶けた金属を流し込んだり、4頭の牛に勢いよく四肢を引っ張らせてバラバラにしてしまう―と云った残酷なものもあった様です。恐いですね)。
しかし革命の途中から、刑の執行にギロチンが用いられる様になると事態は一変します。
ギロチンは本来、残酷な処刑のやり方に反対した人達が、痛みの無いすみやかな刑の執行を実現すべく開発した物で、それに際しては、優れた技術者でもあったルイ16世の意見も取り入れられています(刃が斜めなのはルイ16世のアイデアとか)。
しかし、この機械はあまりにも簡単に人の命を終わらせる事ができた訳です。人の命を強制的に終わらせる際、そこに伴う筈の消耗と云うものを、執行者にも観衆にも、そして恐らくは被執行者にももたらさなかったのではないでしょうか。
現在我々はPCを中心とする便利アイテムを駆使し、かつては相当な時間と労力を費やしていた作業をいとも簡単に済ませてしまいますが、それに伴う気力の消耗もスキップしている訳ですね。気力の代わりに何を消耗させているのかいないのか分かりませんが、効率化ばかりを図っていく結果、感覚はそこに追いつかなくなります。そしてそこから何かのバランスがくずれ、やがて心を病んでしまう。何かこの現象、シャルルさんが経験した無感覚と通じるものがあるのではないかと感じます(比較する事が正しいのか、と云う問題はここでは論じません)。
現在の、この様な効率化は「経済圏の加速」等と呼ばれ、僕事は産業革命以降続いている流れと理解していたのですが、それ以前に起こっていた様子を今回知りました。
ギロチンと云う機械、産業革命を待たずとも開発され得たシンプルな仕組みではありますが、それはあまりに重い仕事を代用してしまうものだった為、執行に伴う筈だった多大な消耗を執行者から、或いは観衆から奪い、その心を病ませるに充分足るものだったと云う事でしょうか。
ちなみにシャルル・アンリ・サンソンさんは、教養があり、ハンサムで、医療によって多くの人達を助け、死刑囚に対して常に公正な態度で接した人だったそうです。(中野)