2012年10月18日木曜日

グローバル化とは



英語の語学書のタイトルには「ネイティブはこう話す」とか「そんな英語ではネイティブに笑われる」とか云う類のものが多い様子。物事の一面とは云え、こう云うのを目にすると欧米化奨励はまだ続くのか―と、少なからず不安な気持ちになるのが正直なところです(英語を学ぶ事の有効性にケチを付ける訳では決してありませんが)。

インターネットの普及がグローバル化を進行させ、我々が“日本の外から日本を見る視点”を獲得するにあたり一役買ったものと思われます。その視点は(取り分け我々日本人にとって)この先大いに役立つものに違いありませんが、“グローバル化と呼ばれる欧米化”と云う長らく続いている現象からは、すっかり脱却しないまでも、最低限認識くらいはしておかないとまずいと感じます。

この“グローバル化”例えるなら、運動神経の善いクラスのリーダー的存在サイトウくんを目標に、本当は一人で絵を描く事が大好きなヤマモトくんが無理矢理身体を鍛えている様なもので、自らの個性を埋没させる恐れすらある行為です。

加えて、もし学校のクラス全員がスポーツ万能だと、そんなクラスは面白くも何とも無い訳です。身体能力に長けた子どもが居て、漢字を沢山知っている子どもが居て、何を考えているか分からない子どもが居て、ギャグの水準が高い子どもが居て、南米の民俗音楽に明るい子どもが居て、皮肉屋が居て、お調子者が居て、泣き虫が居て、その様にしてクラスは初めてカラフルな様相を呈していく訳ですね。

クラスが楽しくある為には、皆がサイトウくんを目指すのではなく、それぞれが自身の特性を認識し深める事が重要です。クラスを地球に置き換えれば、グローバル化とは、様はこう云う事なのでしょう。

冒頭の、英語の話にしても、日本人が話す英語なのだからむしろ“ネイティブと一線を画そう”くらいの気持ちがあっても善いのではないかとさえ思います。そう云えば以前(正式な題は忘れましたが)「英語はありえないくらい、ゆっくり話そう」と云ったタイトルの語学書を見た事があって、なるほどと思ったものです(残念ながら、中身は読んでいないのですが)。
我々が日本語を話す外国人と対面する際を思い起こしても分かる様に、母国語とは別の外国語を話す相手に対し、言い方や発音の誤りについて嘲笑する者が居たならば、レベルが低いのは明らかに嘲笑した方と云う事になります。
まあ、何度云っても相手に全然通じない時には確かに或る種、切なさにも似た無力感が湧いては来ますが、それは同じ言語を話す相手にもしばしば起こる事ですね(むしろ言語が同じ分、無力感は深くなります)。

20世紀、西洋文化の取り入れ(つまりは近代化)にいち早く成功した日本ですが、西洋文化だけではグローバルに立ち行かなくなっている現在(人間、合理的な事ばかりはしていられないと云う事ですね。我々の多くが経験している筈です)、洋の東西の狭間にて我々に担える役割があると思われ、またそれは21世紀において一つ鍵になるものと思われます。
「それでは具体的に何をすれば善いのか」と云う問いの答えはいつ出るものとも知れませんが、僕の場合には曲を書き続けております。(中野)

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