先日「ショーシャンクの空に」の映画を観ました。
終盤にモーガン・フリーマンさん扮するレッドという囚人が、長い刑期の果てに仮釈放の審査を受ける場面があるのですが「殺人を犯した事を後悔しているか?」との問いに、モーガン氏は非常に長い、あたかも演説の様な回答を返す訳です。
僕事しばしば思うのですが、英語と云う言語は何と云うか“情報を詰め込む”のに適しています。
ポケットが沢山付いた上着の様なもので、ここに財布、ここに鍵、ここに携帯電話―と上手に収納してスマートに着こなせてしまう。
日本語をこれに例えるなら、大きなポケットが2つ付いただけのシンプルな上着です。このポケットに何でもかでも詰め込んでしまうと、どうも落ち着きが悪い。
―と云った具合にて、英語で話された格好善い台詞を日本語に訳して云おうとしても、大抵ずっこける―と云うかある種不自然さが生じます。
もし「ショーシャンクの空に」を日本で作り直し、レッドの長台詞をそのまま和訳したとしたら、いくらお芝居でもこれはちょっと成り立たない気がします。
では、何故英語は“情報を詰め込み”易いのか―と考えるに、恐らくは“足し算”の言語だからと云えるのではないでしょうか。
つまりは
2+3=5
にて、それ以上にはならない。
一方の日本語は“掛け算”の要素があり
2×3=6
となってしまい、
英語なら
2+3+1+4=10
と、四つの数字(つまりは言葉)を使っても10にしかならないところ
日本語は
2×3×1×4=24
と四つの数字を使うと24になって、何と云うか重量オーバーとなってしまう
まあ、あくまで例え話ですが。
そう云えば、英訳された日本の漫画を読むに、多くの台詞で訳された後の方が単語の数が増えている様です。
また日本語は1つの言葉に色々な要素が附随し易い言語でもあります。
「言葉による理解は二次的な理解のしかたで、日本人はそんなまだるっこしい手続きを嫌う」と何かで読んだ記憶がありますが、成る程例えば文章にしても、その場面の情景、或いは登場人物の仕草なんかについて描写する事で、その人物の内面までも読者に想像させる―と云った例を目にします。
先の漫画の話に戻るに「功殻機動隊」でバトーが矢野と云う部下の死体と対面する場面にて原作では一言「矢野…」と云っているのに対し、英訳では「Poor
Yano…」となっている訳です。つまりは、矢野の死体と対面する―と云う状況において、日本語でただ一言「矢野…」と云えば伝わる事も、英語では「Poor
Yano…」と、もう1つ単語が必要―と云う例ですね。もしこの翻訳を逆輸入して「かわいそうな矢野…」等と訳してしまうとバトーのキャラクターが壊れます。
さて、言葉少なに色々の事を表現するのに適している日本語ですが、その一方、言葉を発する人間の思惑に関わらず、どうとでも捉えられてしまう、と云う場合も少なくないと云えます。また、場合によってはある種“みっともなさ”に繋がってしまうケースもあります。
例えばマクドナルドで注文を取る際「…テリヤキマックセット…」とあたかも小学生がそのまま歳をとったかのごとき様子にて話す人がいると「『テリヤキマックセット』だけじゃわからないわよ。『テリヤキマックセットを下さい』ってちゃんと云いなさいな」と思ってしまいますね。
そんな状況を避ける為にも、言葉に何かを付随させる能力には磨きをかけたいものです。
例えば「テリヤキマックセット」とだけ云っても、「テリヤキマックセットを下さい」と云った場合と同じだけの表現力を発揮している人もいたりする訳です。こう云う人は恐らく、声色、表情、間、と云ったものをコントロールする能力に長けていて(或いは人間性がそう云ったものにまで滲み出るのか)、1つの単語だけで必要な事を相手に伝えられてしまいます。
しかしまあ、そこまでいくのは中々難しいので、現在のところ僕はおとなしく「テリヤキマックセットを下さい」と云っております。(中野)
私は「テリヤキマックセット」としか言いません。というか愛想がないので、きちんと言った方がいいんだろうなぁとは思うのですが、言えません。
返信削除さて、前半部に対してはやはり、私も海外の小説や映画なんかを見るときにはどうも違和感を感じることがあります。
たとえば、死の間際の女性が恋人に対して、
"I..."
"love..."
"you..."
と単語を一つ一つ区切って、息も絶え絶えに言ったとすると結構絵になるシーンのように見えますが、日本語で「愛」「し」「てる」とかってなると、ただどもっているだけのようになってしまい、なんとなく間抜けですね。
なかなか日本人の作家でノーベル文学賞を取る人が出ないのも、こういった日本語と英語の違いによるのかもしれません。
「愛」「し」「てる」等と云うと「え?」って聞き返されてしまいそうですね(死の間際なのに...)。
削除(中野)