2012年8月6日月曜日

宮沢賢治とバッハの共通項について


童話にて親しんだ、宮沢賢治さんの詩を初めて読んだ際に「これは難解」と感じました(魅力的ではあるのですが、どうにもするすると読めてしまうものではなかった)。ムズカシイ言葉が多く用いられていた事が1つの所以です(時には科学の専門用語も登場)。有名な雨ニモマケズ―と云うのは、彼の書いた詩の中でも非常に分かり易いものだったのだと、その時に知りました。

話変わって、僕事高校生の頃より暫くヴァイオリンを習っていたのですが、練習曲がバッハだと嬉しくありませんでした。それまでにもしばしば課題として出てきた―どちらかと云うと機械的な、あまりメロディアスではないと感じる幾つかの曲に、当時それ程共感できなかった為です。

さて、この両者の共通項を挙げるならば、1つの単語、1つの音に意味は無く、その配列の妙こそが重要と云う点でしょう。意味を追ったところで大抵分かりません。それよりも、その連続性に身を投じることで―どちらかと云えば身体から―実感する作品と感じます。逆にもし11つの言葉や音に意味が生じてしまうと、ゴチャゴチャとしてしまい、自由にずらりと並べ立てる事が出来なくなります。
蛇足ですが、その点尾形光琳の燕子花図屏風と比較すると面白いかも知れません。彼のカキツバタ、全て三色のみで同じ様に描かれた非常に無個性なものですが、故に如何様にも並べる事が出来るのですね。それぞれが自己主張をしていれば、あの美は生まれません。ダイナミックでありながら非常にすっきりとしています。―と云うよりすっきりとしているからこそ、あのダイナミズムが現れるのでしょう。

現在では、宮沢賢治もバッハも僕にはとても大切なものの1つです。何と云いましょうか「正しい言葉(音)を正しく並べただけです。自己表現等は特にしていません」と云った感じがしてとても善いです。

仕舞いに酷く個人的な事を申し上げると(毎度の事ですが)僕事詩を書く際は、先ず曲ありきで、音がその旋律にぴったりとくる言葉を選び、意味は後付け、時には無し―と云う手法を主としています(初期の曲に至っては、全ての旋律に詩を付ける事すらままならず、歌詞の無い部分が結構多い―しかもCDにして売っちゃった)。数年前、件のアルバムを発表した際、御近所の方に買って頂き「すごいね、むずかしい言葉をいっぱい知ってるんだね」と褒めて頂きました。もっと芸を磨かなければいけないと改めて決心したものです。(中野)

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