残暑厳しい中、向ヶ丘遊園の駅前で待ち合わせ(ノヅ氏が、先日氏の誕生日に贈呈した筆入れのお返しにと、鳥取の鬼太郎キャラメルをくれる)。美術館へは徒歩で向かう。
歩く事10数分、いつしか小高い山へと足を踏み入れ、気温も心なしか低くなる一方、街とは少し違う空気に、我々を待ち受けるものへの期待が否応無しに高まる。
―と云った体にて館内へ。
岡本太郎さんの作品において最も特徴的なのは、縄文土器以来日本の美術品に見られなくなった「呪術性」「原始性」と云ったものが表されている点だと云えましょう。
あの生命の躍動感は―同じ日本的な絵画*でも―浮世絵のシレーっとした感じとは真逆のものです。ディフォルメ化と云う両者の共通項から見れば、あたかも同じ器に別のものを注ぎ込んだかの様。
そして浮世絵と比較した際の、もう一つ大きな違いは“岡本作品は芸術作品”と云う点です。
「芸術作品には1人の人間が生きた事を感じさせる何かが無ければいけない」と云ったのは詩人の中原中也ですが(確か)、そもそも浮世絵に止まらず江戸時代までの日本美術作品を見れば、芸術作品―1人の人間が自らの何かを表現すべくして作ったもの―と云う感じがあまりしません。そこにはしばしば素晴らしい美があり、非常な表現力がありますが、やはり作者の視点と云うものを感じさせないだけの“引き”が感じられます(凄い芸です)。そしてそこには見る者が入り込めるだけの余白が生じます。これらの作品を見ると、現代で云うところの「芸術」とか「アート」と云う感覚で作られてはいないと感じられます。
一方の岡本作品には(多くにおいて)、“引き”と云ったものは無く、作品の中で岡本太郎さんと云う人間が盛大にはじけています。それは無論物凄い事ですが、そんな作品を見ていると時に疲れます(ただ、氏は人間が共通して持っている根源的な部分まで自らを掘り下げた上で、作品として昇華している為、見る者はそこに、自分も含む人間の普遍的な部分を見出す事ができます)。流石「芸術は爆発」と云い放った御仁です。
これはどちらが優れている、いないではなく、ただスタイルの違いと云えますが、表現力を爆発させる事で失われるものもあるのですね。
個人的には、偶に館内の片隅に展示されている造形作品―薄暗い中、何かの顔や生き物がひっそりと佇んでいる―のを一寸覗き見るのが非常に面白く感じられました。分かり易い表現力を持ったものが、少し引いた所にある事で何かバランスが取れている為でしょうか。
後、面白かったのが子どもの落書きを造形にしたかのごとくディフォルメ化された犬。こんな生き物は居ないにも拘らず、今にも喋り出しそうな(吠えるよりも喋りそうな犬です)、非常に生き生きとした感じがしたのを忘れられません。
何か感想が子どもっぽくなってきたところで(“大人”がテーマなのにな…)また次回!
(中野)
*フランス留学で吸収したものもはっきり表れる岡本太郎さんの絵画を「日本的」と云い切ってしまうのは語弊があるのかも知れませんが、何しろ縄文的です。
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